伏見区中島宮ノ前町(平成15年1月3日)
桓武天皇が都の南方の守護と鳥羽離宮の裏鬼門の抑えとしたところから、方角の災い除く、方除(ほうよけ)のご利益があるらしい。又鳥羽伏見の戦いのとき、薩摩藩軍が布陣した場所。薩摩藩は小枝橋から城南宮、そして竹田街道まで列になって布陣した。
御祭神は国常立尊、八千矛神=大国主命、息長帯日売命=神功皇后の三柱の神様を中心にお祀りしています。はるか昔、神功皇后は出陣に当たり、軍船の御旗に八千矛神を招き寄せて戦勝を祈願され、戦が終わるとその御旗は宮中で大切に保管されていました。そして平安京に都を定めた時、その御旗を城南のこの地に御神体として納め、国土守護の神、国常立尊と神功皇后の御霊をあわせ祀って都の守護神としたのです。
平安時代の末になって、紀州の熊野三山に参詣することが一大ブームになりました。白河上皇や鳥羽上皇は熊野詣の精進所として城南離宮をしばしば選ばれました。ここに7日程籠って身を清め、道中の安全を祈願して、往復一月にも及ぶ信心の旅に出掛けたのです。また当時の人々の心を捉えた方違えの宿所に城南離宮が選ばれる事も多く、城南宮の、方角の災いを除く方除、旅行安全の信仰を見ることができます。城南宮の方除の信仰はいつの世も変わることなく受け継がれ、文久3年(1861)皇女和宮様が14代将軍徳川家茂に嫁ぐ際、城南宮では方除・道中安全のご祈祷を承りました。そして慶応4年(1868)1月3日、城南宮の参道に並べられた大砲が火を噴き、鳥羽伏見の戦いが始まり、明治維新を迎えたのです。こうして城南宮は貴族の世から武士の世へ、そして武士の世から明治へと転換する歴史の舞台となったのです。
神社入口、明神鳥居
神楽殿と飾り物
うら若き巫女さんが舞殿でお神楽に合わせ踊っていました。
胸毛まで生えている堂々たる体躯の京尾付狛犬
拝殿とのれんの様な注連縄
拝殿内部では神主さんの祝詞が
本殿
社殿の両側には摂社が幾つも
境内社・唐渡天満宮
境内社・真幡寸神社
(嘉永2年(1849)建立)