山国護国神社

北桑田郡京北町鳥居(平成16年1月3日)

山国護国神社由緒
王政復古の政変に際し、勤皇隊の総司令官、西園寺公望公の要請に呼応して、山国庄の名主等が農民兵を組織して、勤皇隊に加わり、鳥羽、伏見の戦いはもとより遠く江戸、奥羽地方まで転戦した事は史実に基ずいても明らかな所であります。其の山国隊が、山国庄に明治2年2月21日凱旋した日に伍長会を開いて、辻村薬師山に、この度の戦いで、戦病死をした隊士の招魂場を設けることを議した後、2月24日全隊員が先ず五社明神に参拝して報告祭を催し、その足で先日決議した、薬師山に戦病死をした、七隊士の墓標をたて招魂祭を催した。
その隊士の名は次ぎの通りである。
中西市太郎 (江戸)  高室重蔵  (江戸)
田中浅太郎 (安塚)  高室治兵江 (安塚)
田中伍右江門(上野)  北小路万之助(京都)
新井兼吉  (安塚)

明治8年12月15日最初の招魂祭を京都府の監督官の臨席のもとに催したがこれが恒例となって、毎年山国村村民が多数参列して現在に至るまで盛大に執行せられている。尚この間に明治15年7月14日京都府は「自今招魂社祭祀及修繕等の諸経費は皆官費を以て被支給候事」、の通達を出し、昭和20年の終戦に至るまで官費をもって招魂社の諸費は賄れて来た。又、明治16年8月には社殿を新築し、石棚を造り招魂場としての体裁を整えた。招魂社が明治2年に設けられて以来明治16年までに支出した全員は二千余円の多額にのぼる旨が記録されている。憲法が改められて以来官営の招魂社は認められなくなり、昭和20年宗教法人山国郷社となり、昭和26年宗教法人山国護国神社となって町民崇敬の社となっている。明治百年祭より、日清、日露、大東亜戦の戦病死者を昭和42年より合祀されている。


司馬遼太郎の街道を行くに、河内山半吾という人物が登場する。蛤御門の変の後京を追われた長州藩士河内山半吾は東福寺の塔頭の一つ明暗寺に入って虚無僧になった。山国郷の隣に丹波の馬路村に東福寺の末寺、長来寺という寺があり、河内山半吾はその長来寺を頼り、やがて長来寺の子寺の重勝院に住み込んだと云う。剣術の達人だったらしく、一帯の農家の師弟に剣術を指南しつつ、土地の有力者達と昵懇になった。河内山半吾は「やがて天朝の世になる」と、後鳥羽伏見の戦いを始めた薩長は必ずしも勝つ自信が無かった。負ければ明治帝を女装させて山陰方面に脱出させるべく用意をした。その為沿道の鎮撫はしておかねばならない。大将として二十歳の西園寺公望が選ばれた。その時「馬路村を最初の陣屋にしてもらいたい」と言う密使が河内山半吾から届いていたと云う。同士80人が結束し山国隊を組織した。

神社入口

戦病死をした山国隊士の招魂碑