八代宮

八代市松江城町7-34(平成24年4月5日)

東経130度36分6.86秒、北緯32度30分15.7秒に鎮座。

 この神社は八代城跡内に鎮座しています。
 神社より約250m南にある参道入口から、桜並木の中を北に進むとお城の南に出ます。月見櫓跡、舞台櫓跡を左右に見ながら橋を渡ると、社名の記された額が掛かった二の鳥居が立ち、その左右に狛犬がいます。参道左右には「夫婦松」、右には能舞台が配され、左に霊社が祀られています。正面の神門を潜ると、明るい回廊内の正面には千鳥破風付き入母屋造りの大きな拝殿と、透かし塀内に三間社流造の本殿が建立されています。
 神社は綺麗に整備され見た目も美しく、城跡内は桜の花見客で大賑わい。八代市民に親しまれ憩いの場となっている、お城と神社でした。

 御祭神:懐良親王(後醍醐天皇皇子)、配祀:良成親王(後村上天皇皇子)
 祭礼日:8月3日
 境内社:霊社
 由緒:後醍醐天皇の皇子で、征西将軍としてこの地で足利軍と戦った懐良親王を主祭神とし、懐良親王歿後に征西将軍職を継いだ良成親王を配祀する。地元では「将軍さん」の愛称で呼ばれている。建武中興十五社の一社である。
 例祭日の8月3日は、八代宮の創建が太政官によって決定された日である。親王が死んだ日を例祭の日とすべきであったが、その日が不明なため創建決定の日をもってした。創建の日でないのは例祭日を創建に先立って定めたためである。

 明治維新以降、南朝の功労者を祀る神社の創建運動が各地で起こり、懐良親王の墓所のある八代の住民からも、懐良親王と良成親王を祀る神社を八代城趾に創建し、鎌倉宮・井伊谷宮と並ぶ官幣中社にしてほしいという請願が何度かなされた。これを請けて1880年(明治13年)に太政官が熊本県に創立を命じ、懐良親王を祭神とし、良成親王を配祀する神社が八代宮の名で願い通りに造られることとなった。
 八代町の住民が鎮座地に八代城趾を推した理由は、懐良親王が一時居城としていたところで、親王の墓所からも近いことであった。実のところ親王が拠った南北朝時代の八代城(古麓城)の場所は、江戸時代の八代城(松江城)と違っていたが、当時は住民も政府もそうは認識しておらず、松江城に神社が建てられた。同地には官有地と民有地があったが、翌1881年(明治14年)に民有地が神社のために寄付されたため、八代城址は全体が神社の境内になった。また神社の前から市街に通じる道路を開くこととした。建設予算は9463円80銭4厘で、寄付金2642円97銭4厘(寄付金2000円、残りは力役提供を金銭に換算)と官費6820円83銭で拠出した。
 またこの年に、宮内省と内務省は霊代(神体)を社殿完成後に新しい鏡で納めることにすることを決めた。社殿が完成してから、明治17年(1884年)4月20日に鎮座祭が行われ、霊代が納められた。

 1875年(明治8年)12月 - 八代町の住民が神社創建を請願した。
 1880年(明治13年)1月15日 - 徳富忠七ほか56名の八代町人民が熊本県に神社創建を請願した。
             2月3日 - 熊本県が内務省に請願を取り次ぎ、創建を申請した。
             6月28日 - 内務省が八代宮の創建と概要を決定した。
             8月3日 - 太政官が熊本県に創建を命じた。
 1884年(明治17年)4月20日 - 鎮座祭。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)


神社より約250m南にある参道入口
参道入口に立つ一の大鳥居 社号標
「官幣中社八代宮」
神社へと続く桜並木の参道
桜並木の参道終点はお濠の南
八代城跡と八代宮遠景
社頭
神社入口に立つ二の台輪鳥居 鳥居に掛かる額
二の鳥居脇にいる大正15年生まれの狛犬
スマートで均整のとれた姿をしており、吽には角が付いています。
狛犬の拡大写真はこちらで
(大正15年(1926)1月3日建立)
参道脇の「夫婦松」
能舞台
神門と回廊
神門
境内の様子
千鳥破風付き入母屋造りの大きな拝殿
拝殿内の様子
三間社流造の本殿
社殿全景

境内社:霊社

八代城

八代城南の二の門跡付近から見る月見櫓跡
八代城南の二の門跡付近から見る舞台櫓跡
霊社社殿右下に有る「八代城本丸の井戸跡」
八代城北の九間櫓付近から見る埋み門跡
 
八代城北の廊下橋付近から見る三階櫓跡
八代城北の廊下橋付近から見る大天守跡