貝洲加藤神社

八代市鏡町貝洲699(平成24年4月5日)

東経130度37分38.97秒、北緯32度33分39.02秒に鎮座。

 この神社は九州新幹線と八代海に挟まれた、大鞘川北の平坦地に鎮座しています。
 42号線・鏡町両出信号付近から322号線沿いに一の大鳥居が見え、そこから約1km先に神社が鎮座しています。その間に九州新幹線も通っていますが、この社の往古の規模は如何なものだったかを偲ばせる長さです。神社は322号線が緩く左カーブしている突き当たりに入口があり、正面に真新しい二の明神鳥居と境内入口に古い三の鳥居が建立されています。境内入口には又、今はもう下に水の流れることが無くなった神橋が架けられ、広々とした境内中央奥に、入母屋造りの重厚な拝殿と、透かし塀内に妻入り向拝つきの本殿が建立され、左右に境内社の貝洲神社、和合神社が祀られています。
 現代人が何気なく生活している地域も、昔の人々の言い知れぬ苦労のお陰…、神社巡りを始めたお陰で、歴史に対しても少し深く勉強する様になり、往古の人々に対する感謝の気持ちをも強く抱くようになりました。

 御祭神:加藤清正公
 祭礼日:9月24日
 境内社:貝洲神社、和合神社
 由緒:当社は、安土桃山時代に活躍された加藤清正公(1562〜1611)を祭神として御祀りしている。清正公は武勲の誉れとともに土木や灌漑治水にも手腕を発揮された方でもある。
 19世紀初頭江戸時代末期の文化年間に、御国一の貧地と云われた野津手永の惣庄屋に着任した鹿子木量平翁が、人民の困窮を救わんと新地開きを計画した時に、崇拝する清正公の霊廟に『大願成就のあかつきには新地の氏神様として勧請し永世に御祀り申し上げる』との願を掛けられ、工事に着工したことに由来する。
 量平翁は息子謙之助と共に、文化2年(1805)から文政5年(1822)にかけての17年間に、100町、400町、700町と三つの新地を次々と干拓する。
 文政5年9月22日に、渓玉院日b上人以下僧や信者数十名に守られて本妙寺を出発した清正公の神霊を奉じた神輿は、同月24日に神殿に御鎮まりになった。当時新しい社寺の建立は禁止されていたが、藩主細川斎茲公の特別のお許しにより土地を賜り、『侍屋敷の鎮守』の邸内産土神として勧請された。明治3年には村社に列せられる。
 境内には末社として本殿向かって右に市杵嶋姫神を祀る貝洲神社と、向かって左の綿津見大神を祀る和合神社がある。
 また鹿子木量平翁は、鏡町両出にある文政神社の祭神として御祀りされている。

42号線・鏡町両出信号付近から見える一の大鳥居
322号線で道路をまたいで立つ一の大鳥居
社頭
神社入口に立つ二の明神鳥居 鳥居に掛かる額
古色蒼然たる三の鳥居 三の鳥居に掛かる額
境内入口に置かれている、今はもう下に水の流れることが無くなった神橋
境内の様子
参道の様子
拝殿前、壹百年祭記念(1921)に建立された狛犬
長い顎髭、整然と並ぶ歯列、尾等熊本らしい面影は残されていますが、他地域からの影響も入ってきて大分洗練された狛犬となってきました。吽の前足が折れていますが、コンクリートで補修されています。大事にされているようでとても嬉しいですね。
狛犬の拡大写真はこちらで
(石工・長嶋伊太郎 大正10年(1921)建立)
拝殿脇に寝そべっているライオン
(石工・平田傳七 大正14年(1925)2月24日建立)
入母屋造りの重厚な拝殿
拝殿内の様子
妻入り向拝つきの本殿
本殿木鼻・狛犬と植物鼻

境内社:和合神社(綿津見大神)
境内社:貝洲神社(市杵嶋姫神)
石字般若経碑 宮司広松盛時先生像
参集殿?