印鑰(いんにゃく)神社

八代市鏡町鏡村1(平成24年4月5日)

東経130度39分48.81秒、北緯32度33分50.2秒に鎮座。

 この神社は鏡小学校と道路を隔ててすぐ西に鎮座しています。
 この神社で何よりも特筆すべきは7本の大楠の存在でしょう。推定樹齢800年を超える大楠は、どの木も幹周・5m、樹高・15mを超え、最大のものは幹周・9.5m、樹高・25mにもなるそうです。天正年間(1573〜1592)に神社が焼失した時もこれらの木々は生き残り、その後もこの地域の歴史を見続けてきたのでしょう。
 神社の入口には明神鳥居が立ち、境内のあちこちに聳える大楠の樹間越しに正面に昭和4年生まれの狛犬が護る入母屋造りの拝殿が見え、左には社務所が建っています。三間社流造の本殿は透かし塀内に建立され、その周囲にも大楠が立ち並んでいます。透かし塀内に何かチラッと見えたので注意して見ると、何と狛犬ではありませんか。それも飛び切り変わった子で、思わずニンマリ。
 その他、境内には境内社が数社祀られており、特に粟島神社のミニ鳥居は、私も潜りたくなる衝動に駆られる程可愛い鳥居です。

 御祭神:蘇我石川宿禰
 祭礼日:4月7日・春季大祭(鮒取り神事)、4月8日・春季大祭当日祭 、6月1日・還暦他年祝い・厄入り・厄晴れ・厄払い、7月18日・18夜祭造り物展示(協賛)、8月8日・ 夏季大祭・子供神輿奉納等、11月上旬〜15日頃・七五三詣、1月1日・新年祭、3月3日・粟島神社・弁天宮大祭(ミニ鳥居くぐり)
 境内社:粟島神社、弁天宮他
 由緒:武内宿禰の第3子である蘇我石川宿禰は筑紫の凶徒を鎮める為に下向し終わりはこの地にて薨じたとか言われる。後鳥羽天皇の建久九年(1198年)肥後の国球磨の地頭職-相良三郎名頼が弟の八郎為頼に八代の北三里「鏡ヶ池」の近くに神社を造営させ蘇我石川宿禰の分霊を祭神として鎮座して以来宿禰の徳を仰ぐ人々の崇神の所になったと伝えられている。
 奈良時代肥後国八代郡に郡司があり律令制度の下八代地方の祖米が集められ郡倉に収納されていた。役所には朝廷から渡された印と鑰(かぎ)があり平常は別殿に納められ大切に祀られていた。印鑰神社の〔印鑰〕とはその〔印〕と〔鑰〕のことである。
 後に郡倉が廃止されその跡(市指定史跡八代郡倉跡)に建久9年当神社が造営され「印鑰」が神社の名称にもなった。印鑰神社の御祭神を石川宿禰としたのは宿禰が朝廷の内蔵-大蔵の管理者であったことに由来するものと考えられる。
 印鑰神社春季大祭の鮒取り神事(八代市指定無形民俗文化財)は石川宿禰が凶徒平定の為この地に来られた時悪天候で海が荒れ魚が捕れず地元の若者が「鏡ヶ池」に飛び込み鮒を献上し石川宿禰をもてなしたと言う故事にならい毎年4月7日褌一つの若者が池に飛び込み手づかみに鮒を捕り御神前に供え見物人にも投げ上げる行事は今日も賑わいを伝え継いでいる。

印鑰神社公式サイトはこちら

社頭
入口に建つ明神鳥居 鳥居に掛かる額
参道・境内の様子
拝殿前、昭和4年生まれの狛犬
伏せた耳を頭の後ろに流した、やや猿顔の若々しい狛犬です。踏ん張った前脚や滑らかなお尻の曲線など、全体的に均整がとれた体つきをしています。やや長めの顎髭や歯並びの良さが熊本らしいといえるのでしょうか。
狛犬の拡大写真はこちらで
(昭和4年(1929)5月吉日建立)
入母屋造りの拝殿
拝殿内の様子
透かし塀と三間社流造の本殿
透かし塀内にいる狛犬
熊本では時々とても変わった狛犬を見かけますが、この狛犬もその範疇に入りそうです。頭部が大きく3頭身くらいしか有りません。目玉が飛び出て、唇からこぼれそうな歯並びをしており、如何にも獰猛そうな感じがします。大きな垂れ耳で、鬣は二段になっており上は縦ロール下は前脚の付け根まで伸びるほどストレートで流し、背中からお尻まで背骨に沿って鬣を流しています。尾は中央部はペタンと背に張り付き、根元部分は左右に渦を巻いています。関節や筋肉の盛り上がりが見られ、力強さを感じさせています。石工が肥前国戸川村出身と記されていますが、佐賀県の砥川石工さんのことなのでしょうか?砥川でもこんな狛犬は見かけなかったのですが…。
狛犬の拡大写真はこちらで
(建立年代不明 石工・肥前国戸川村 ?四右衛門)

境内社:塞之神?
境内社:弁天宮
境内社:粟島神社
 ミニ鳥居
日露戦役従軍賽捷碑 印鑰神社鎮座八百年祭記念碑
御神木・大楠
  
御神木・大楠
御神木・大楠
御神木・大楠
御神木・大楠