文政神社
八代市鏡町両出(平成24年4月5日)
東経130度38分25.28秒、北緯32度33分26.31秒に鎮座。
この神社は文政小学校の東約400mに鎮座しています。
郷土の恩人・鹿子木量平を祀る神社で、東脇には量平・謙之助父子のお墓もあります。余り大きくない社地の神社ですが、神社もお墓も良く手入れされ、地域の人達の崇敬心が強い神社…との印象を受けました。
御祭神:鹿子木量平
祭礼日:不明
由緒:この神社は、干拓の恩人鹿子木量平を祭神として祀ってあります。量平の業績をたたえる郷土の人々によって明治43年(1910)百町・四百町・七百町三新地の接点にあたるこの地に作られました。量平の没後70年、やっと完成した神社に感謝の念をもって参拝し、喜びをわかち合ったといわれています。大鎮祭式の時、奉納された唱歌は、子ども達をはじめ村人によって今でも歌いつがれています。
尚、鹿子木量平・謙之助の墓は、この神社のすぐ横にあります。
(「八代市商工会HP」より)
文政小学校の近くから脇道を少し入った田園風景のなかに、鹿子木量平(かなこぎ
りょうへい)をまつった文政神社があり、その脇に量平・謙之助父子の墓があります。
県道14号線から海側には広大な田畑が広がっていますが、この土地はほとんどが江戸時代以降に干拓された土地です。文政神社がある文政地区も江戸時代までは干潟が広がる海で、文政年間(1818〜1829年)に埋め立てられたため、この地名が付きました。また、北出、外出とよばれる地区がありますが、この「出」は「入植によってできた新しい村」を意味しています。
現在では、県内でも有数の農業地帯となっている八代市鏡町も、当時は海に面した湿地が広がり、農業には向かず、漁業で生活を維持する人びとが多く、「お国一の貧地」とよばれるほど生活は厳しかったといいます。
鹿子木量平
鹿子木量平は、宝暦3年(1753年)、飽田郡鹿子木村(現 熊本市北部町)の庄屋宅に生まれ、幼いころから遊ぶ間も惜しんで勉学に励んだといいます。鹿子木村庄屋を務めているときに雲仙の大噴火(寛政4年)があり、大津波におそわれた村の救済に尽力した功績が藩に認められ、益城郡杉嶋手永の惣庄屋に任命されました。
文化元年(1804)年、52歳のときに、現在の鏡町が含まれる野津手永の惣庄屋となり、「お国一の貧地」を治めることを任せられました。すぐに、人びとの生活を豊かにするために、干拓による新田開発を藩に願い出て実行しました。作業は困難の連続でいくつもの課題が待ち受けていましたが、彼は百町新地(文化2年)、四百町新地(文政2年)、七百町新地(文政4年)、と短期間で次々と新田開発に成功しました。
量平は天保12年(1841年)、89歳で亡くなり、その墓は3つの新地が交わるところにつくられました。さらに人びとは量平の偉業をたたえるために、没後70年にあたる明治43年(1910年)、墓の脇に神社を建て、量平を祭神としてまつり、感謝の念をもって参拝しました。これが文政神社で、量平の墓には、現在でも地域住民によって時折花が供えられ、感謝の心を伝えています。
(サイト「熊本県庁文化企画課博物館プロジェクト班」より)
社頭 |
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神社入口 |
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入口に立つ明神鳥居 |
鳥居に掛かる額 |
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