七夕神社

山鹿市鹿央町岩原4608(平成24年4月6日)

東経130度40分51.4秒、北緯32度58分42.19秒に鎮座。

 この神社は55号線に面して鎮座しています。入口には可愛い狛犬さんを乗せた燈籠が立ち、石段途中に鳥居が建立されています。石段を上がりきると60m程平坦な参道が続き、其の後又石段を上がると境内に入ります。境内入口には狛犬さんが居り、正面に入母屋造りの拝殿、後ろに回って又石段を上がると本殿が建立されて居ます。
 神社名の物珍しさに惹かれて参拝しましたが、元々は八幡宮。社が建てられたり、祭礼が7月7日だったためにいつの間にか「七夕神社」と呼ばれるようになったようで、今では隠れた「恋愛祈願」社となっている?ようです。

 御祭神:誉田別命
 祭礼日:7月7日、10月7日
 由緒:この社に案内はありません。山鹿市役所発行の「広報やまが 2009.11.1版」には次のように記されています。
 「鹿央町岩原には、不思議な名前の「七夕神社」があります。
 第六十一代朱雀天皇の頃、世の中が大変乱れたため、この世の平安を祈って創建されたのが、岩原八幡宮(七夕神社)で、それは天慶三年(九四〇)七月のことでした。肥後国司の尾藤隆房が直々に建てたほどの由緒ある神社なのです。
 本社は三ツ棟の幣殿で、回廊があり、東に唐門、北に不老門、南に弥勒寺を従えた当時としては破格の壮大な構えの神社でした。また、下宮としての八幡宮、岩原川を挟んでの若宮神社、その途中の春日大社や桜井大明神、住吉、葉山、妙見などは全てこの関連の社でもあります。
 その後、神社も傷み、安元 二年(一一七六) 小松内大臣平重盛が再興し、神領などの寄付をしています。
 さらにその後の後醍醐天皇の頃、元弘・建武(一三三一〜一三三四)以来、菊池家の受領の時に、菊池肥後守藤原武重・菊池肥後守武光は神社を修復し、この末社などにも祭田を寄進しました。そして、七月七日には社頭の東で神輿を納め、種々のお祭りも催しました。
 しかし、この由緒ある神社も天正九年(一五八一)島津軍の肥後侵略の時に兵火に遭い、灰塵となってしまいました。
 そこで文禄四年(一五九五)、祀官の緒方大神惟仲が村人と相談し、小さいお堂を建てて八幡宮を再興して、七月七日と十月七日を両祭日と定めました。
 岩原八幡宮がいつの間にか「七夕神社」と呼ばれるようになったのは、七月に社が建てられ、七月七日に神輿のお祭りがあり、祭礼が七月七日と定められたことによるものと考えられます。そして、本来下宮だった社が岩原八幡宮となり、現在に至っています。」

社頭
入口に立つ可愛い狛犬さんを乗せた燈籠
狛犬の拡大写真はこちらで
入口に立つ鳥居
鳥居に掛かる額 社号標
入口すぐの参道の様子
50m程進んだ参道の様子
石段参道の様子
境内入口
境内入口に居る昭和3年生まれの狛犬
苔生して貫禄十分、背景と一体化してなじんでいます。
狛犬の拡大写真はこちらで
(製工・志々岐 竹崎太門 昭和3年(1928)3月建立)
境内の様子
入母屋造りの拝殿
拝殿内の様子
拝殿天井絵
本殿へと上がる石段参道
本殿

猿田彦大神 猿田彦大神
猿田彦大神 石碑
鎮守の杜