繁根木(はねぎ)八幡宮
玉名市繁根木188(平成24年4月6日)
東経130度33分38.48秒、北緯32度55分26.65秒に鎮座。
この神社は玉名市役所の南西約150mに鎮座しています。社地前面には石垣が組まれ、石段を数段上がると狛犬と鳥居。30m後方に高さ約12m、江戸初期に建立された素晴らしい彫刻が施された二層造りの堂々とした楼門。楼門左右には睨みを利かせている仁王様がいて、楼門内には彩色が綺麗に残っている木製狛犬もいます。楼門扁額は安永6年(1786)細川八代藩主・重賢公の親筆の筆になるもので、暖かなお人柄が偲ばれる書体です。すっきりと整えられた境内中央奥には、唐破風付き入母屋造りの拝殿、透かし塀内に流造の本殿が建立されており、本殿妻には下界を睥睨している鬼さん達もいます。
又、境内には境内社や石祠等が点在し、楼門や狛犬が描かれた絵馬も素敵でした。
御祭神:応神天皇、仲哀天皇、神功皇后 三座
祭礼日:10月28・29日
境内社:多数
由緒:当宮は平安中期の応和元年(961)紀隆村が山城国石清水八幡宮を勧請し旧坂下郷総鎮護の社としたと伝える。旧郷社である。以来1025年を閲する。紀氏は大野別府の政所として祭祀を管掌する一方降って鎌倉時代には地頭を兼ね大野郷250町歩を領しその勢威を誇ったが天文の頃大野氏は衰亡した。天正16年(1588)肥後国守として入国の加藤清正公は荒廃した社殿その他の復興に力をいたされその後襲封された細川氏も敬神の美風を継承されたので漸次旧に復するを得た。創建当初の遺風を伝える節頭行事は当宮の重要祭儀であり秋の大祭に氏子区域内の輪番で奉仕されている。江戸初期に建立された楼門は当宮を代表する建造物で宏壮精巧な偉容は県内稀に見るもので上層の扁額は細川八代藩主重賢公の親筆を安永6年(1786)掲額された。又天保6年(1835)には当地方の五穀豊穣を祈念し同田貫上野介宗広がうった神剣が奉納されている。この地は古くから県内五ヶ町の一に数えられ舟運による対外貿易も盛んに早くから文化の拓けたところであり社域の貝塚 後方の古墳 補陀落渡海碑等が散在する。境内2600余坪には欅、楠の老樹が繁茂し荘厳な社地を形成している。
武威 殖産の広大な御神徳を景仰し郷民こぞって厚い崇敬を棒げている。
この神社は、応和元年(961)、大野別符(荘)の地頭紀(大野)隆村が、荘園の本家である石清水八幡宮の分霊を勧請して大野荘250町歩(250ha)の総鎮守としたと伝えられています。なお、領家は福岡の筥崎八幡宮です。
中世には、高瀬五ケ寺の一つ天台宗壽福寺(神宮寺・社の北側が旧寺址)の支配下にありました。大野氏の後ろ盾として玉名地方に進出し、高瀬を拠点に海外貿易にも乗り出した菊池氏(一族は高瀬氏を名乗る)に保護されてきましたが、菊池氏が没落すると同社も衰退しました。
近世、肥後の国主となった加藤清正は、城北の有力神社として再建整備につとめました。現在の社殿、石垣は当時のものといわれます。ついで、入国した細川氏も保護につとめ、楼門の扁額は安永年間(1780頃)の藩主重賢の筆になるものです。
なお、境内には弥生時代のものと思われる貝塚がありました。
社頭 |
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神社入口 |
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鳥居前にいる嘉永7年生まれの狛犬
阿は石の目が有ったのでしょうか?元気の良い狛犬ですが、胴体が半分にスポッと割れています。
狛犬の拡大写真はこちらで |
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(嘉永7年(1854)甲寅3月吉日建立) |
台輪鳥居 |
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社号標
「郷社繁根木八幡宮」 |
鳥居に掛かる額「八幡宮」 |
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参道の様子 |
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高さ約12m、江戸初期に建立された二層造りの堂々とした楼門 |
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楼門の扁額
安永6年(1786)細川八代藩主・重賢公の親筆の筆になるもの |
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楼門唐破風下の目貫彫刻・龍 |
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楼門左右の目貫彫刻・亀と海馬 |
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楼門木鼻・象と麒麟 |
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楼門長押上彫刻・狛犬と牡丹 |
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楼門左右で睨みを利かせている仁王様 |
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境内側から見た楼門 |
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楼門境内側唐破風下の目貫彫刻・翼竜 |
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楼門境内側左右の目貫彫刻・波乗りウサギ |
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楼門境内側木鼻・龍馬と狛犬? |
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境内の様子 |
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唐破風付き入母屋造りの拝殿 |
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拝殿目貫彫刻・鳳凰 |
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拝殿木鼻・漠と麒麟 |
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拝殿内の様子 |
拝殿内に掛かる額 |
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透かし塀と流造の本殿 |
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本殿妻で下界を睥睨している鬼さん達 |
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境内社 |
境内社 |
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石祠 |
青面金剛碑 |
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石祠 |
猿田彦大神 |
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石祠 |
石祠 |
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絵馬 |
絵馬 |
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