陳内阿蘇神社

熊本市北区龍田陣内3-6-68(平成24年4月8日)

東経130度45分9.28秒、北緯32度49分28.86秒に鎮座。

 この神社は3号線が豊肥本線と交差する北約400mに鎮座しています。
 参道の入口は豊肥本線南の道路にある「北バイパス竜田陣内バス停」に近く、神社の約200m程南東に当たります。ここに大鳥居が建立され、参道を分断する様に豊肥本線のレールが敷かれ踏切が作られています。その奥の高架は県道337号線で、この下を通り住宅の間を行くと大きな森が見えてきます。
 神社入口には石段上に二の鳥居が立ち、燈籠の間の参道奥に境内。石工さんの独自性が輝る昭和5年生まれの狛犬が護る唐破風付き入母屋造りの拝殿、弊殿、本殿は、正面に堂々と建立されています。又、ご神木の古樟根元には紐解天神が祀られています。

 御祭神:阿蘇都比当ス外十一柱
 祭礼日:不明
 境内社:紐解天神
 由緒:当社は、健磐龍命の妻阿蘇都比当スを主祭神として外十一柱の阿蘇の神々を併せまつる。勧請年月は不詳なるも、奈良時代(約1200年前)に創建せられ、この地方一帯(竜田、黒髪、清水、下南部)の鎮守として勧請されたと伝えられる。当初、阿蘇都比当スだけの勧請が阿蘇家より許されたので、「二の宮」と申し上げる。
 天文年中(約440年前)、菊池武経(阿蘇惟長の改名)の家士84人の一人、立田小太郎重徳(のちに将鑑と改む)が宇留毛村の白川小金淵の上に立田城を立て城主となった。阿蘇惟長と主従関係の間柄にある立田将鑑は、神社の近傍に諸士らと居住し、尊信篤く当社を敬仰し奉り、社殿の改修に力をつくした事蹟が伝えられている。
 神社明細帳に、天正年間(約400年前)、火災に罹り、社殿、記録、祭具等ことごとく焼失、ご神体の所在もわからなくなったところ、毎夜、楠の樹上に大きい光が輝くので、改めて見ると御神体であった。驚きかつ敬して遷座奉る、とある。
 江戸前期には神社に所属する神宮寺があった。寛文4年(1664年)の再建記録に、「卍再建南閣浮堤大日本国鎮西路肥後州鮑田郡立田陳内阿蘇大明神社一宇諸行普賢大士」と、あり、阿蘇都比当スのことを、「弥勒大士」と仏名が記され、供僧秀尊によってお宮が建て替えられている。その後は、宝暦7年(1757年)の宝殿修復では石原雅楽敏行、明和8年(1771年)から明和9年にかけての宝殿・拝殿修復は、吉永土佐守正六位藤原朝臣秀桓の神職が社殿の修理を加えている。
 明和9年の棟札によると、下立田、宇留毛、室園、万石、麻生田、楡木、弓削、下南部、陳内合わせて九ヶ村の産土神と記されている。別の棟札、文献では、上立田、立田本村、兎谷の村も見え、その年代によって氏子の範囲が多少異なっている。この中には産土神を祀る村もあり二重氏子の形態がとられ、当社はそれを統括する神社であった。時代の移ろいとともにその形態もしだいに変化し、大正年間まで続いていた白川対岸の下南部も離れ、現在は陳内だけの産土神である。
 阿蘇大宮司宇治宿弥惟典公御世、寛政5年(1793年)には、工藤伊津記管原明信がお家再興を許され当社神職に復した。同時に上龍田村三宮並びに三宮敷地の小社共兼帯したことが棟札に記されている。
 江戸末期から明治初頭にかけては弘化3年(1846年)に拝殿、嘉永4年(1851年)に宝殿、明治22年(1889年)に弊殿が再建されている。もっとも古い拝殿築後から150余年の歳月を経、傷みもひどく劣化腐朽が進み畏れ多い現状であった。
 …中略…
 古くから万民平穏、五穀豊穣、所願成就の神として人々の生活に幸福と恩恵を与えて下さる霊験あらたかなるお社として広く信仰を集め「二の宮さん」の尊称で親しみ敬われ、遠近からの参詣者の跡が絶えなく今日に続いている。


豊肥本線南の道路にある「北バイパス竜田陣内バス停」近くの、参道入口
参道入口に立つ大鳥居 鳥居に架かる額
参道を分断する豊肥本線踏切と奥の高架は県道337号線
参道の様子
社頭
境内入口に立つ二の明神鳥居 鳥居に架かる額「阿蘇神社」
参道の様子
境内の様子
拝殿前、昭和5年生まれの狛犬
大きな垂れ耳で、阿は口中に玉を含んでいます。鋭い目つきで、太く纏まったもみあげが他の狛犬では見かけません。痩せた体躯に長い鬣や体毛が装飾的に付けられ、筋や瘤の様な筋肉が盛り上がっています。熊本のみならず全国的にも珍しい表現の狛犬で、石工さんの独自性が顕著な作品です。
狛犬の拡大写真はこちらで
(昭和5年(1930)1月吉日建立)
唐破風付き入母屋造りの拝殿
拝殿目貫彫刻・龍
拝殿木鼻・狛犬と獏
弊殿と流造の本殿

境内社:紐解天神とご神木の古樟