加藤神社

熊本市中央区本丸2-1(平成24年3月27日)

東経130度42分27.64秒、北緯32度48分13.59秒に鎮座。

 この神社は熊本城内北、重要文化財・宇土櫓に隣接して鎮座しています。
 熊本で最も慕われているお殿様・加藤清正公を祀る神社で、全国90社を数える清正公を祭る神社の御本社格の神社です。
 入口には大きな鳥居が建立され、狛犬が二対も目を光らせ警護しています。境内に入ると右に手水舎、左に社務所が配され、中央の御神木に小さなお社が祀られています。中央奥にコンクリート造り唐破風付きの大きな拝殿と流造の本殿が建立され、本殿右には境内社の白鬚神社が祀られています。
 又、境内には加藤清正公縁の大手水鉢、太鼓橋、旗立石、お手植えの樹等が点在し、見所満載…という感じです。
 熊本の人々の清正公に対する厚い崇敬心が感じ取れる清々しい神社でした。

 御祭神主祭神:加藤清正公、陪神:大木兼能公、韓人金官公
 祭礼日:1月1日・元日、歳旦祭・初詣で、1月3日・始祭、1月11日・開き、1月15日・松囃子奉納、2月3日・星祭、2月3日・節分(厄除虎くぐり)、2月4日・立春、2月8日・針供養祭、2月11日・建国記念の日(旧紀元節)、2月17日・祈年祭(1年の作物の豊作を祈る)、3月3日・桃の節句(ひなまつり)、3月13日・十三まいり、3月20日・春分の日、4月20日〜24日・春季大祭、4月29日・みどりの日、5月5日・端午の節句(こどもの日)、5月5日・立春、6月1日・厄入・厄晴・還暦等年祝参拝、6月30日・夏越の大祓、7月15日・お盆、7月22日〜24日・夏季大祭、7月第4日曜日・「清正公まつり」神幸行列、8月7日・立秋、8月15日・終戦記念日(旧盆)、8月15日・敬老の日、8月23日・秋分の日、10月5日・末社「白鬚神社」例祭、10月20日・えびす祭、11月3日・文化の日(旧明治節)、11月7日・立冬、11月8日・ふいご祭、11月15日・七五三まいり、11月23日・勤労感謝の日(新嘗祭)、12月23日・天皇誕生日(旧天長節)、12月31日・年越の大祓・除夜祭
 境内社:白鬚神社
 由緒:加藤清正公【永禄5年(1562)6月24日〜慶長16年(1611)6月24日】は、尾張国愛知郷中村(現名古屋市中村区)の出身で、戦国時代の智仁勇の三徳を兼備された模範的武将として、また、熊本に於ては、日本三名城の一つである熊本城の築城と、それにははじまるところの富国安民の国づくり政策を推し進められた方であります。
 それは、全県下に亘る土木・治水工事をはじめ、干拓・開墾・植林・交通の便の為の街道づくり、焼物等幾多の国の発展の礎となる産業の奨励保護等民草の為の治世をなされ、また、学問の奨励・文化の開拓等と一つ一つ列挙すれば限りない程の偉業を残された領主であられます。
 それに武将としての清正公は、単なる勇しいばかりの武士でなくして、常に大義名分を重んじられると共に、上には忠と義を以って、下には慈悲と情を以ってあたられた方であります。この様に27歳で肥後国に入国され50歳で逝去なされた、清正公の五十年の人生は、実に至誠にして高潔なる人格者であり、いつの時代に於ても尊崇敬慕されるにふさわしい理想的日本人であられ、熊本県民にとっては、熊本発展の礎となる有形無形の役割を果された大恩人であられます。

・慶応四年   熊本藩主細川韻邦公の弟長岡護美公の建議により明治元年朝廷より神祭仰出され、浄池廟を神道儀式にて守護する。
・明治四年   神仏分離の際熊本城内に神宇を創建し錦山神社と公称する。同年神祗官を経て大木兼能・韓人金官公の両霊を合祀する。
・明治七年  明治六年に熊本鎮台が置かれ、城内が悉く陸軍用地に編入された為に、京町台に改築遷座奉祀する。
・明治八年   社格を県社に列せられる。(昭和二十一年社格制度が廃止)
・明治十年   西南の役に際し、社域は恰も交戦の衝路となり手水鉢以外建物悉く焼失する。(ご神体は事前に健軍神社に移し奉護する)
・明治十一年   陸軍中佐乃木希典氏西南の役戦勝報賽の参拝をされ祭文を奏上される。(直筆の祭文は御神宝として所蔵)
・明治十七年  社殿再建に着手し、十九年に竣工正遷宮する。
・明治四十二年 清正公三百年祭を斎行し、社号を加藤神社と改称する。同年閑院宮殿下の御参拝あり幣帛料を供進される。同年陸軍大将乃木希典氏より太刀一振薙刀一本献納される。
・明治四十四年 伏見宮殿下の御参拝あり。同年米領ハワイ在留民の懇請により加藤神社を創建する。
・大正三年   朝鮮京城府龍山有志者の懇請により加藤神社を創建する。
・昭和六年   昭和天皇の勅使として侍従山県公爵が幣帛料を下賜される。
・昭和三十七年 永年の熊本城内遷宮の宿願叶い現在地に遷宮する。
・昭和四十六年 御創建百年を記念して、御鎮座百年記念大祭を斎行する。
・昭和 五十年  夏祭りに神幸行列を復活する。(昭和五十七年より清正公まつりに改称し、昭和六十年清正公まつり奉賛会を組織する)
・和五十一年 青少年の健全育成と教化を目的として子供会を結成する。
・昭和五十六年 清正公生誕四二〇年。御鎮座一一〇年記念大祭を斎行する。広大無辺なご神徳の昂揚を目的として崇敬会を結成する。(平成六年に青年部を組織する)
・昭和六十三年 清正公肥後入国四百年記念大祭を斎行する。
・平成三年   清正公生誕四三〇年。御鎮座一二〇年記念大祭を斎行する。
・平成四年   城内遷宮三十年記念大祭を斎行する。
・平成十三年  清正公生誕四四〇年。御鎮座一三〇年記念大祭を斎行する。
・平成十九年  熊本城築城四百年記念大祭を斎行する。
(境内由緒書きより)

 元は慶長16年(1611年)の清正の歿後に清正を祀った浄地廟であった。慶長19年(1614年)、火災で焼失した本妙寺が浄地廟に移された。
神仏分離により明治元年(1868年)、浄地廟の儀式を神式で行うこととなり、同4年、浄池廟・本妙寺より神社を分け、熊本城内に社殿を造営して錦山神社(にしきやまじんじゃ)とした。場所は大天守、小天守、宇土櫓に囲まれた平左衛門丸である。同年、大木兼能と金官を合祀した。同7年、熊本城内に熊本鎮台が置かれるのに伴い、城外の新堀町(現在の京町一丁目)に遷座し、翌8年県社列格、同10年2月、西南戦争により社殿を焼失し(神体は健軍神社に避難していた)、明治17年に再建した。明治42年(1909年)に、錦山神社から加藤神社に改称された。乃木希典も信仰していることもあり、没後300年、軍国主義とともに不敗の加藤清正への信仰がおこり、各地に分霊を祀る加藤神社ができた。同44年にはハワイに、大正3年(1914年)には日本統治下の朝鮮・京城府(現 大韓民国ソウル特別市)に当社の分霊を祀る加藤神社が創建された(京城府の加藤神社は戦後に廃社。跡地は聖山教会になっている)。加藤清正を祭る神社は一時90社を数えるが、一部例外(鹿児島県など)を除き全国的に分布し、その約半分は熊本県にある。昭和27年(1952年)、宗教法人加藤神社となった。同37年、道路改修のため、熊本城内の現在地に遷座した。
((フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より))

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社頭
入口に立つ明神鳥居 社号標
鳥居前にいる昭和56年生まれの狛犬
(昭和56年(1981)12月吉日建立)
入口玉垣脇にいる昭和11年生まれの狛犬
如何にも九州らしい、無骨な感じの狛犬です。未だ獅子紋もきっちりと残っています。
狛犬の拡大写真はこちらで
(昭和11年(1936)7月24日建立)
境内の様子
唐破風付きの大きな拝殿
拝殿内の様子
本殿後側面から

境内社:白鬚神社
大手水鉢
熊本三手水鉢と言われ、清正公の重臣大木邸使用のものです。
太鼓橋
清正公が文禄の役の記念として持ち帰られたものであり、帰国後に於ける橋づくりの原型とされたもの。
清正公の旗立石
文禄の役記念として、明治42年肥前名護屋城より移したものです。
「清正公肥後入国四百年」碑
社務所
清正公お手植えの樹
この銀杏の樹は、慶長6年(1601)より慶長12年の熊本城築城の際、大天守前の銀杏と共に、加藤清正公がお手植えされたものと伝えられています。
忠広公ゆかりの松
御神木と小社
絵馬

加藤神社入口付近から見る重要文化財・熊本城宇土櫓(三の天守)