藤崎八旛宮

熊本市中央区井川淵町3-1(平成24年4月7日再訪)

東経130度43分15.5秒、北緯32度48分17.75秒に鎮座。

 この神社は熊本の総鎮守として信仰を集める古社・大社です。
 熊本市の中央を流れる白川右岸に鎮座し、3号線沿いに立っている大鳥居から、東に約300m程一般道と共用の参道を行くと途中に狛犬が居り、神社入口には二の鳥居が建立されています。壮麗な楼門を潜ると境内は回廊に囲まれ、中央奥に入母屋造りの拝殿・申殿・本殿が建立され、申殿縁には子沢山の中国風狛犬も見られます。又、回廊の一画には神楽殿や祈祷殿らしき社殿が建立されています。
 回廊周囲には能楽殿や摂社や末社等が大切に祀られ、総鎮守として多大なる尊崇を受けているのが感じられます。
 市の中心地に鎮座する神社ですが、巨樹が聳える鎮守の杜が残され、壮麗な楼門・回廊・社殿等が素晴らしく綺麗で、旧国幣小社だったことが頷ける格式と、多くの方々の崇敬心が伺える神社でした。
 この社の秋季例大祭は通称「随兵(ずいひょう)祭り」呼ばれ、1000年以上の歴史を持つ肥後一の大祭と称せられ、毎年約30万人の人出で賑わうそうです。九州電力のHPには『メインイベントは、15日に行われる御神幸行列。甲冑姿の随兵や、獅子、子供神輿、稚児など約2万人の行列が、藤崎八旛宮と藤崎台(熊本城西)を練り歩きます。祭りを盛り上げるのが馬追い。勢子たちが「ドウカイ、ドウカイ」の掛け声とともに、鉦や太鼓を打ち鳴らし、飾り付けした馬を時には、けしかけるようにして賑やかに進んでいきます。』と紹介されています。秋の風物詩として伝統を誇っている、熊本市の年中行事の中で最大のもので、熊本の皆さんならずとも、沢山の人々の信仰と楽しみの対象となっているようです。

 御祭神:應神天皇(一宮)、住吉大神(二宮)、神功皇后(三宮)
 祭礼日:1月元旦・歳旦祭 ( 初 詣 ) 射去祭、1月3 日・元始祭、1月5日・囃子祭、1月7日・若菜献供祭 宮比祭、1月9日・射去祭、1月11日・御庫開祭、1月14日・穂垂祭、1月15日・御粥献供祭、2月1日・月次祭、2月3日(節分の日)・節分祭 ( 星 祭 )、2月11日・紀元祭、2月15日・月次祭、3月1日・月次祭、3月15日・月次祭、3月18日・人丸社祭、3月26日・随神祭、4月1日・月次祭、4月13日・第一日祭 藤祭、4月14日・第二日祭、4月15日・御当日祭、4月29日・昭和祭、5月1日・月次祭、八十八夜・献茶祭、5月15日・月次祭、6月1日・月次祭 開運長寿祭、6月15日・月次祭、6月27日・新町(御旅所 大祓式)、6月30日・大祓式 ( 茅輪神事 )、7月1日・月次祭、7月15日・月次祭、8月1日・月次祭、8月15日・月次祭、9月1日・月次祭、9月13日・第一日祭例大祭、9月14日・第二日祭、9月15日・献幣祭、献幣祭直後の休日若しくは祝日・神幸式、神幸式の翌日・奉賽祭、10月1日・月次祭、10月5日・日田社例祭、10月10日・六所宮初日祭、10月11日・六所宮御当日祭、10月15日・月次祭、11月1日・月次祭 五三祝祭、11月15 日 ・月次祭 七五三祝祭、11月23日・新嘗祭、11月25日・天満宮祭、11月28日・灰塚社・御崎社祭、12月1日・月次祭、荒人社祭・三光宮祭、12月3日・武内社祭、12月13日・御煤払祭、12月15日・月次祭、12月23日・天長祭、12月31日・大祓式 除夜祭
 境内社:武内社、六所宮、先師社、荒人社、菅原社、三光宮、日田社、灰塚社、御崎社、藤井恒社
 由緒:藤崎八旛宮は、社記によれば承平5年(935)に朱雀天皇が平将門の乱平定を祈願され、山城国(京都)石清水八幡大神を国家鎮護の神として、茶臼山(今の藤崎台球場)に勧請されたのに始まる。鎮座の日、勧請の勅使が藤の鞭を3つに折って、3ヵ所に埋めたところ、この地に挿した鞭から、やがて芽が出て枝葉が繁茂したので、藤崎宮の名称が起こったと伝えられている。
 藤崎八旛宮の「旛」は、天文11年(1542)、後奈良天皇宸筆の勅額に拠るものである。創建以来、歴世朝廷の御尊崇はもとより、世々の国司、地頭、藩主から万民に至るまで広く信仰をあつめ一国の宗廟と称され、神威は赫赫として四隣に輝いた。往時の社殿は壮大を極め、修造は常に勅命によって、時の国主が承平草創の例にならい造営する伝統が踏襲されていた。それらの実情は、社蔵の文書記録に詳しく記されている。南北朝時代と戦国時代には、群雄の陣営となり或いは戦場と化して荒廃した時期もあったが、降って加藤氏、続いて細川氏が肥後の国守として任に就くや、共に代々崇敬殊の外篤く、当宮の造営に力を尽くし、13年を期とする式年造営修復の旧例をも復活された。その他社殿造営費をはじめ、毎年恒例の諸祭儀費に至るまで、すべて藩費をもって賄われたので、江戸時代250年間、諸事欠けることなく整備された。
 明治維新後、同10年(1877年)に西南の役が勃発し、熊本城と隣接する藤崎台にあった社殿は、兵火のためにすべて灰燼に帰し、社地は熊本鎮台用地となったため、現在の井川渕町に移転。翌11年に仮殿を造営、次いで同17年にようやく本殿の造営を見た。
 大正4年国幣小社に加列。昭和10年御鎮座1000年を迎えた際に、国幣社にふさわしい造営計画を設定し、国費の補助と氏子崇敬者の浄財とによって新たな造営に着手した。しかし、間もなく戦時となり、工事ははかどらず未完成のまま終戦となったため、戦後は本殿以下の社殿、次第に腐朽し尊厳を損なう状態となった。よって、昭和60年の御鎮座1050年式年大祭を目処に、修復整備並びに新規施設の諸工事を進め、逐次竣成して今日の壮麗を拝するに至った。
(「藤崎八旛宮公式サイト」より)

3号線沿いに立っている大鳥居
3号線から東に向かう参道の様子
参道途中にいる嘉永6年生まれの狛犬
8年前には暗闇の中での撮影でしたが、今回は早朝。撮影には余り良いコンディションとはいえませんでしたが、今回はしっかりと狛犬の姿を見られました。吽は角付き、縦長の蹲踞の姿勢が美しい実に堂々とした良い狛犬です。
狛犬の拡大写真はこちらで
(嘉永6年(1853)癸丑正月建立)
神社入口に立つ二の台輪鳥居
参道の様子
楼門
回廊に囲まれた境内の様子
入母屋造りの拝殿
拝殿内の様子
申殿縁にいる彩色が綺麗な子沢山の中国風狛犬
申殿
本殿
回廊の一画にある神楽殿
回廊の一画にある祈祷殿?
能楽殿

末社:六所宮
祭神:加茂大神 春日大神 松尾大神 稲荷大神 八坂大神 貴船大神。
由緒:寛永九年、豊前大守、左少将細川忠利当国移封、其の長子侍従細川光尚、産土神たるの故を以て正保元年、豊前国中津六所宮を勧請鎮齋せらる。
例祭:10月11日
摂社:武内社
祭神:武内宿祢大臣。
由緒:景行、成務、仲哀、應神、仁徳の五朝に歴任して大功あり、長寿を保ち世の長人と称せらる。本宮御祭神との御縁由により攝社として奉齋。
例祭:12月3日
末社:先師社
祭神:肥後武道先師
由緒:大日本武徳会、熊本支部武徳殿の敷地内にありし先師社を、同会の解散により当所に移転。 昭和23年5月23日鎮齋す。
末社:藤井恒社
祭神:八旙大神
由緒:承平の昔、当宮鎮座の日、勅使持てる処の藤鞭を地中に埋め、神霊若し感応あらば必ず奇瑞あらんと祈念す。此所に挟みたる藤鞭、即ち枝葉を生ず、故に名付けて藤崎と云ふ。明治10年西南役後、本宮、当地御移転と共にその芽をこのこの地に移し植ゆ。
例祭:4月13日、14日、15日
末社:御崎社
祭神:素盞嗚尊
由緒:本宮勧請以前より茶臼山に祀る。旧社地藤崎台の地主神なり。本宮と共に現在地に移転
例祭:11月28日
末社:荒人社
祭神:左中将 橘能員神霊
由緒:神託により之を祀る、本宮創祀の際、神輿を奉じ総官として下向、其のまま神官に補任。社家の長官たり。
例祭:12月1日
末社:菅原社
祭神:菅原道真公
由緒:文政7年月日不詳、和田萬助なる者土中より石厨子の如き物を掘り出せり、依って近傍協議し爰に鎮座すと言伝ふ。明治九年教部省第37号達に基き、同10年9月8日、熊本区寺原町より当社境内に移転。
社殿:石祠
例祭:11月25日
末社:三光宮
祭神:大己貴神 少彦名神
由緒:医薬の祖神にして特に中風の病災除けに霊験いやちこに坐す。
例祭:12月1日
末社:日田社
祭神:鬼蔵大夫永弘 鬼蔵大夫永興 鬼大夫永季 三毛入野神 老松神
由緒:豊後日田の郡司にして治民の事蹟顕著なり、又勇武絶倫にして相撲道を奨励せらる。旧肥後藩士財津氏祖神たるの故を以て同族相謀り当地に勧請。
例祭:10月5日
末社:灰塚社
祭神:軻遇突智神
由緒:本宮御日供の灰を納むる処に火災除けの神として奉齋。故に灰塚の称あり。
例祭:11月28日
行幸記念碑 報賽碑
砲弾 石碑
清原元輔歌碑
藤崎の軒の巌に生ふる松  いま幾千代か子の日過ぐさむ
元輔は、寛和2年(986)京都から肥後守として着任し、永禄2年(990)まで肥後の国府(現在の二本木町)で任務を執った。ある年の正月、今の藤崎台球場の地にあった藤崎宮で『子の日の松』の行事を催し、この歌を詠んだのでそれにちなんでこの歌碑が建てられた。書は藤崎宮官吉永千秋である。 元輔は枕草子の作者、清少納言の父で、元輔を祀った清原神社は、横手町北南にある。
後藤是山句碑
初茜 神話の阿蘇を 東に
後藤是山(ごとうぜざん)は、明治19年(1866)大分県久住町生まれ。本名は後藤祐太郎。生涯ジャーナリストの精神で、新聞記者としてだけではなく俳人としても活躍した人物である。熊本日日新聞の前身である九州日日新聞社に勤務していた。また郷土史家としても功績を残し、「肥後国誌」の編纂や「肥後の勤王」の刊行などを行った。熊本の文化発展に尽力し、昭和26年(1951)熊本県近代文化功労者、昭和31年(1956)熊日社会賞、昭和46年(1971)勲五等瑞宝章、昭和54年(1979)熊本名誉市民にそれぞれ選ばれている。昭和61年(1986)、99歳で死去。
藤棚

神社東を蕩々と流れる白川の様子