中島日吉神社

菊池郡大津町中島1 (平成29年3月12日)

東経130度52分40.72秒、北緯32度51分11.69秒に鎮座。

この神社は、熊本空港の北東3km程の辺り、中島の街中に鎮座しております。

御祭神 大山咋神

由緒
中島は上古より旧合志郡の陣内地区と陸続きで、白川は集落の南側を流れ、阿蘇郡岩坂村とは白川を境としていたそうです。ところが、平安前期貞観11年(869)夏の大雨で九州の諸川大氾濫、白川も激流のあまり集落の北側に新たな流れが出来て、当地が白川の「中の島」となり、そこからここを「中島」村と称したそうです。その後、平安中期寛和2年(986)夏に再び大洪水に襲われ、北側が白川の本流となり、中島は地形上白川南岸の地区になりましたが、行政上はその後もずっと旧合志・菊池郡であり続けました。昔は、集落の南側に白川本流の名残が小さな溝となって廻っていました。現在の集落の北東に「宝満鶴」という字があり、一説に「古くは中島の故地で、窟宝満宮(竈門神社・太宰府市)を勧請した社を鎮守として人々が住んでいたが、白川の水災を恐れて何時の頃か現在の集落に移住した」とされています。従って、地区の鎮守は当所は宝満神社であったと思われますが、室町前期北朝の佐々木合志氏が大津地域に勢力下にしていく中で、その一族である合志隆保が元中2年(1385)ここを支配、応永元年(1394)近江(滋賀県)坂元の日吉神社を勧請しました。
史料によると、隆保-隆春-隆国-隆亮-隆明-隆義-隆光、と7代の支配を経て、豊臣期天正13年(1585)北上する島津勢力により合志本家は滅び、隆光は館を逐われたそうです。その後、江戸期に隆光はこの地に戻り、庄屋大田黒志摩守と名乗って居住し、一族は加藤・細川の藩政を助け、中島井手開削など地域の安定に尽くしました。南側の旧本流の畔には、厳島神社「ウキシマサン」の古宮があり、白川の洪水で漂着した神像を祀っていましたが、現在は日吉神社境内に合祀されています。
また、日吉神社内の御門神社は「矢五郎さん」と親しまれ、北側に83個の丸型自然石を年の神として祀る合志氏の屋敷神「年の神」、南側に中島合志7代の屋敷跡とされる「奥の七塔」があります。中島は、白川の岸辺にあって、多くの神々が訪れた憩いの地でした。
境内由緒書き より。

神社入口

入口左右の狛犬。拡大写真はこちら。
(昭和13年(1938)12月吉日建立)

拝殿

拝殿内部

本殿


末社