上益城郡山都町長原219 (平成19年6月24日)
東経130度59分44.86秒、北緯32度40分38.14秒に鎮座。
この神社は全国的にも有名な、通潤橋のすぐ近くに鎮座しています。というのも、この社は通潤橋生みの親・布田保之助翁を御祭神としているからです。境内に建つ「布田保之助略歴」には創建は昭和13年とありました。
翁はこの通潤橋架橋の他に、惣庄屋在任中、道路新設110Km,用水溜池建設7ヶ所,道路改善95Km,用水路建設200Km,眼鏡橋架橋14ヶ所、石堰35ヶ所などの敷設が記録されていますが、土木、利水事業にとどまらず、植林,茶,はぜ,養蚕の振興など常に矢部郷の発展のために働き続け、矢部76ヶ村で翁の恩恵を受けない村はなかったといわれています。
拝殿に掛かる板書きの氏子数の多さに、未だに翁の恩恵を忘れず崇敬を続ける、旧矢部郷の人達の思いを感じました。
神社入口 | 境内の様子 |
拝殿 | 本殿 |
通潤橋竣工100年祭記念碑 碑の下に置かれた樋石が通潤橋にかけられてある実物模型です。 |
通潤魂碑 「百五十年の風雪に耐え、日夜たゆまず、白糸台地に水を送り続けた通潤橋。地域住民の活らしを潤し、心を潤し、その偉大な恩恵にあらためて深く感謝を表し、布田翁の示された高潔な偉業を顕彰し、国の重要文化財としての通潤橋が未来の人々への大いなる架け橋とならんことを祈念する。」 |
通潤橋遠景
通潤橋は江戸時代・嘉永7年(1854)、阿蘇の外輪山の南側・旧・矢部町の水源に乏しい白糸台地へ水を送るために、五郎ヶ滝川の谷に架けられた通水橋で、日本初の噴水管(逆サイフォン)を利用した石組みによるアーチ型水路橋です。建造にあたっては地元の惣庄屋・布田保之助翁が計画を立てて資金を調達し、熊本八代の種山石工集団の協力を得、近隣農民がこぞって建設作業に参加したそうです。
現在では灌漑利用が少ない農閑期には、観光客用に20分程度 橋の中央上部両側に設置された放水口から大規模な放水が行われており、観光名所となっています。(残念ながら6月には放水は無しとのことで、私達はあの心躍る放水風景を見ることは出来ませんでした。)この放水の本来の目的は、石管水路の内部にたまった泥や砂を除くためのものだそうです。通潤橋は、高さ20m、長さ75mもあり、江戸時代に造られた石橋としては、アーチの直径ならびに全体の高さは国内最大だそうです。
通潤橋概要・通潤用水路鳥瞰図拡大写真はこちらで
通潤橋左側面と正面から | |
橋の上部に通る3本の石管。 肥後の石工(匠)の技術レベルの高さを証明する歴史的建築構造物で、通潤橋を含む通潤用水は日本を代表する用水のひとつとして、農林水産省の疏水百選に選定されています。 |
通潤用水 鳥瞰図によれば、上流に、笹原川から流れる水を野尻・笹原部落へ流れる灌漑水と、白糸台地に流れる灌漑水に、その水量を分水するために、水田の面積に応じてそれぞれ3:7の割合で公平に流れるように作られた「円形分水路」があります。その分水路から延々6Kmを経て、用水路が通潤橋まで続いているのです。 |
布田保之助翁像 | 五郎ヶ滝川に流れ落ちる通潤用水 |
五郎ヶ滝川と、秋には見事な黄金色に変わるだろうと思われる水田。 | |