甲斐神社(足手荒神)

上益城郡嘉島町上六嘉2242(平成24年4月7日)

東経130度46分14.09秒、北緯32度44分40.17秒に鎮座。

 この神社は嘉島東小学校の南に鎮座しています。
 東参道入口に立つ石製の願掛け鳥居に「甲斐神社」と記された額が掛かっているので、もしかしたらこちらの入口が表参道入口となるのかも知れませんが、駐車場側から行くと「足手荒神」と記された額が掛かる木製鳥居の立つ西参道入口が近いので、今回はこちらからの紹介となります。
 木製鳥居を潜り境内に入ると、グルッと左回りに回り込む形で境内中央に木製鳥居が建立され、手型足型奉納所が右に設えられている拝殿が正面に見えます。拝殿中央手前にはリアルな形の手型足型が置かれ、右側手前には絵馬代わりの「手型」と「足型」板が沢山奉納されています。又、拝殿奥には隠れるように鎮座する陶器製の面白狛犬もおり、本殿は流造で建立されています。

 御祭神:足手荒神(甲斐宗立公)・甲斐宗運公・甲斐氏一族
 祭礼日:例祭・2月15日、1月元旦・歳旦祭、1月3日・元始祭、1月15日・手型、足型、神符焼納祭、2月11日・建国祭、6月30日・大祓式、11月15日・七五三祝い祈願、11月23日・新嘗祭、12月15日・松葉杖、コルセット清め祓い祭、12月31日・大祓式、12月31日・除夜祭、毎月1日、15日・月次祭
 由緒:今から四百年程前の1587年(天正15年)戦国時代末期、九州を平定した豊臣秀吉の命にて、肥後を治める事となった佐々成政の太閤検地に反発し国衆、民衆が一揆を起こす(肥後国人一揆)。御船城城主の甲斐宗立と隈部親永等は三万五千の国人を率い佐々成政が居城する隈本城を攻める。一揆勢は果敢に隈本城を攻めるも、攻め落とすまであともう少しという所で、豊臣秀吉応援の大部隊が九州、四国から駆けつけ一揆は失敗に終わってしまう。
 一揆に失敗し手足に致命的な傷を負いながらも何とか嘉島町上六嘉に逃れた甲斐宗立はその地にて地域住人に手当を受ける。その地域住人の献身的な思いやりに感激した甲斐宗立は「わが亡き後はこのお礼にこの地にて手足の守り神となろう」と言い残し息を引き取った。
 それ以来、この神社を信仰する者その数を知らず、御利益を受け全快し諸人の寄進による手型、足型、ギプス、コルセット、松葉杖と正に社殿を埋め、遠くは外国、九州一円さては遠県よりの参詣者が後を絶たず、今も尚、足手荒神さんと慕われながら、参拝する諸人の手足を守り続ける。
 ご神徳:甲斐相模守親秀入道宗立公は足手荒神と崇められ、昔から手の神、足の神として手足の病気平癒を祈願する者、手足の無病息災を祈願する運動選手及び老若男女の篤い信仰を寄せられています。
甲斐民部大輔親直入道宗運公(甲斐宗運)は宗立公の父である。甲斐宗運は阿蘇神社大宮司の家臣で、戦にかけては生涯不敗であったといい、筆頭家老として軍事外交面において阿蘇氏を支えた。甲斐宗運は戦国時代に一度も負け知らずで薩摩の島津家曰く「宗運のいる限り、肥後への侵攻はできぬ」と恐れられた程であり、その知略を生かした武功から勝負事(必勝祈願)、厄除け、魔除け、学問成就の神様として篤い信仰を寄せられています。
(「甲斐神社公式サイト」より)



社頭
西参道入口に立つ木製鳥居 木製鳥居に掛かる額
「足手荒神」
境内の様子
拝殿
拝殿正面
拝殿中央手前に並ぶ手型足型
拝殿右側手前に奉納されている絵馬代わりの「手型」と「足型」板
拝殿内の様子
拝殿奥に隠れるように鎮座する、陶器製?の面白狛犬
流造の本殿
手型足型が奉納されている地蔵堂?
東参道入口に立つ石製の願掛け鳥居 鳥居に掛かる額
「甲斐神社」