鈴木神社

天草市本町本681 (令和4年5月10日)

東経130度07分55.29秒、北緯32度27分45.29秒に鎮座。

この神社は、天草市役所の西6km程の辺り、本町本の街外れに鎮座しております。

御祭神 鈴木三郎九郎重成公・鈴木九大夫重三公・鈴木伊兵衛重辰公

由緒
鈴木神社は切支丹の乱後の天草を復興し済世救民のために身命を賭し給うた鈴木三郎九郎重成公 鈴木九大夫重三公 鈴木伊兵衛重辰公を御祭神とする神社であり世に「すずきさま」の名で親しまれ三神の偉徳は「鈴木精神」と仰がれる。
寛永14年 唐津藩主寺沢志摩守支配下の天草では万余の民がその苛政に抗して蜂起し島原の民と呼応して遂には原城の露と消えた。
大乱の後天領となった天草の初代代官鈴木重成公は寛永18年より承応2年に至る12年間三河武士の果断と卓越した識見 深い慈愛を傾注して亡所と化した天草の再建に尽瘁せられたのであった。
即ち 一揆犠牲者の慰霊 殖産 移民誘致 行政組織の再編 海浜防備 農漁民の地位保全 衛生の普及 社寺の創建と復興 雑税の減免等の諸施策がそれである。かくて我らが祖先の生活と心は徐々に向上し安定に向かった。
その仁政の陰に実兄鈴木重三(正三)公の深い思想と助言建策が大いに与って力あったことも我々の銘記すべきところである。
しかし天草の困窮の源はこの地の生産力の実態を無視した石高の査定(四万二千石)にあった。代官はみずから再検地して 幕府に対し天草の石高半減を建議 再三の請願も容れられぬと看るや 領民塗炭の苦を除かんと赤心を披瀝し 承応2年10月14日 江戸の自邸に割腹して果てられたのである。
二代代官 鈴木重辰公 またよく先代の仁政を継承し 更にその熱願達成のため挺身せられたため 重成公七年祭万治2年 幕府は遂に天草の石高を二万一千石に半減する旨指令を発した。
島民ひとしく先代の遺徳をしのび 請うて遺髪をこの地(御本殿後方)に埋葬の感謝報恩 慰霊顕彰の篤い念を発して鈴木社を建立した。当社はその後島内三十余に及んだ鈴木社の本社となり今日に至る。その間文政6年「鈴木明神」号下附 文化8年鈴木明神伝碑建立。安永7年社殿新築。天明8年重三重辰二神を合祀 奉納相撲大いに賑わう 明治17年社殿改築 昭和17年復興奉賛運動昂揚するも大戦により中断 昭和34年石高半減三百年記念大祭 昭和58年重成公没後三百三十年大祭並びに記念事業として拝殿の改築その他を奉仕した。鈴木三神の広大な御神徳と三神を敬仰する天草島内外の信篤き人々の心とが相和し相応して御神威ますます高まり思徳はいよいよ深い。
身を整え心を清めてお参りしましょう。御神徳を讃え感謝の真心でお祈りしましょう。神を敬い世のため人のため奉仕する心の輪を家庭と地域社会に広めましょう。
境内由緒書き より。

自刃説の真偽
郷土史家の鶴田文史は、2006年に著した『天草 鈴木代官の歴史検証 切腹と石半減その真実』の中で、多くの文献や史料を基に、自刃説は根拠がなく、1927年(昭和3年)に突然出現した説であること、年貢半減や減税の史料もないこと(次代の重辰の時期に、42000石が21000石に半減した)、重成の死は自刃でなく病死であることを主張した。同書によると、元田重雄が1928年、『みくに』(郷土新聞)の「天草郷土史談」に、「重成は死をもって石高半減を申請し、その旨を遺書して自刃せり」と書いたが、それ以前には全く史料はなく、『熊本県大百科事典』(花岡興輝)や『鈴木代官史料集』(寺沢光世、2003年)にも自刃を裏づける史料はない。後世の作り話であり、郷土史家で自刃説を支持するものはいない。
逆に病死を証明する史料に当時の金石文が残っている。天草市河浦町の一町田八幡宮には鈴木重成の病気治癒を祈願する灯籠が亡くなる2ヶ月前の1653(承応2)年8月に寄進されている。(碑文の抜粋「鈴木重成公病即消滅福寿増長武運長久 子孫繁昌祈所」)さらに苓北町富岡の瑞林寺には亡くなった翌年の1654(承応3)年に建立された「鈴木重成代官の供養碑」には「病牀二就キ日久シ医王手ヲ拱キ術ヲ失フ、天ナル哉命ナル哉、遂ニ逝去シ了ヌ」(碑文を抜粋し、読み下し)とあり、病死だったことが分かる。
ウィキペディアより

参道入口

神額

境内

正面入口

拝殿

境内入口の狛犬。拡大写真はこちら。

(昭和19年(1944)建立)

拝殿内部

本殿


鈴木明神伝碑