女城神社

土佐清水市松尾(平成23年3月30日)

東経132度59分10.95秒、北緯32度43分38.34秒に鎮座。

 この神社は27号線から女城鼻に向かい南下していき、吉松家住宅見学者用駐車場に車を置いて、後は徒歩での参拝をします。風害の為でしょうか?周囲を網で囲っている菜園の間に参道が通っています。鎮守の杜の入口には「女城神社」の案内板、参道途中には「女城岬」の案内板が立っていますが、程なく境内の入口が見えてきます。境内は二段の低い石垣の上にあり、社殿と歌碑の他に、境内社が一社祀られています。
 境内を通り越して更に進んだ先に、第二次大戦時に使用された監視哨跡が残り、更にその先には松尾港を経て太平洋が広がっています。この様を見ると、結果的には大して役に立たなかったのかも知れませんが、此処に監視哨を造ったわけが、何となく理解できました。

 御祭神:生平さま
 祭礼日:旧3月15日
 境内社:恵比寿様
 由緒:サイト「松尾浪漫を楽しむ心得」より
『女城神社の安産伝承』
 女城神社の祭神・生平さまの伝承は、市史によると、鎌倉時代と推定され平家落人伝説にまつわるものとある。源平合戦の後、雌鹿の背に乗り、また「うつぼ舟」を乗り継ぎ、当地まで漂着したと伝えられている。生平さま(海洋信仰の神霊説)は間もなく、女児を出産すると死没するが、女の子は地下の人々に育てられ成人し、妊娠・出産の世話をするようになる。手がけた子は不思議と安産であり皆健やかに成長したといわれ、安産の神様として祀られることになり現在に至っている。
生平さまとは、漂着時、生平の衣装を着ており、土地の人とは異なるところから聖別して呼ばれたものと思われる。生平はイチビの繊維から織られた布で滋賀県高宮町の特産品であり当時の松尾の人々には珍しい布ではなかったかと思われる。生平さまが出産の後、産着を洗っていたのが「女川」である。現在も川に降りる坂は「女子ノ坂」と呼ばれている。天正地検帳(天正17年 1589年)のホノギにも「目川」、「目白カサキ」が記述されているので、少なくとも400年以前の話として実証される。
祭日は、旧3月15日、新生児が男児なら小型の「幟」、女児なら手作りの「まり」(現在は市販のもの)、それに鐘の緒を副える人もおり、安産と無事な成長の御礼に奉納している。また、子供の欲しい女性や、安産を願う呪物として奉納品を借り受け祀る風習が伝承されている。なお、この日、『民俗』で言われる『磯遊び』の日でもあり、大人は酒肴を子供は弁当を携え、お参りの後は磯に降りてにぎやかな1日であったが、最近は少子化の影響で淋しくなっているものの続いてはいる。
女城神社の南側、ウバメ樫の木陰にある「少祠」は恵比寿様で、鷲を祀っている。明治に入ってのことだが、漁師さんが通りかかりに傷を負って弱った鷲を見つけ、つれて帰り手当を続けたがその甲斐も無く死んだので、粗略に葬ったところ以後、家内に不幸が続いたので鷲のことに思い当り、ここに改葬してねんごろに祀ったのが始まりとされ、「空から飛来」する神霊説にあたる。

神社遠景
社頭
参道入口と社号標
参道
境内入口
明神鳥居
社殿
境内社:恵比寿様 歌碑

監視哨跡
神社南から見た松尾港を経た太平洋の様子