高知座(たかちにます)神社

宿毛市平田町戸内4233(平成23年3月29日)

東経132度48分7.32秒、北緯32度56分52.71秒に鎮座。

 この神社は工業団地駅の南南西約600m、中筋川右岸に鎮座してます。
 中筋川を渡ると正面にこんもりとした小丘陵と大きな森が見えてきますが、この小丘がこの社の神奈備山の高知山です。神社入り口前に「高知県保護有形文化財高知座神社本殿」碑がたち、ブロック塀の奥に鳥居が建立され、石段の参道を上がると境内に入ります。広い境内の周囲には木々が茂っており、時間も午後6時に近い為とても暗め。撮影は限界に来ていました。
 境内奥中央に入母屋造りの拝殿が建ち、幣殿の後ろの明和5年(1768)建立の県有形文化財本殿は、保存のため覆屋で囲まれているので、見ることも出来ませんでした。本殿両翼には、合社の形で沢山の境内社が祀られています。
 夕闇迫る中、慌ただしい参拝をしてしまいましたが、再訪するときにはもっと時間に余裕を持って、しっかりと参拝したいと思わせられる、閑かで清々しさの際だつ神社でした。

 御祭神:都味歯八重事代主神、右殿:大国主尊、左殿・素盞嗚尊
 祭礼日:旧九月二十二日
 境内社:聖神社、皇太子宮、曽我神社、天満宮、柴折神社、仁井田神社、大船神社、飛龍神社、覃鳥神社他
 由緒:この社の創祀鎮坐については土佐古代史式内社考証及国造本記高知県の考古学神社史料により皇紀十代崇神天皇波多国造主天韓襲命の頃と云はれる今の幡多の守護神として奉祀せると云う神道考古学の研究では彌生初期当地方の原始水田稲つくり集落の始まる頃であり境内よりすでに多くの石器須恵器土師器を枚集しているいづれも大和朝より平安初代に至る年代を物語る今日姿を失った曾我山古墳の主は波多国造主とも考証されている当社と深いつながりを有している千九十余年の前藤原の時平は勅命により延喜式神名帳を選定して土佐の二十一社を定め幡多三社を選んでいる入野加茂神社下ノ加江伊豆田神社この社を示している奈良朝后期より国司領主の崇敬厚く社の修復宝物の献奉など文献資料示されている宝永三年谷泰山重遠は土佐式内社考を刊行している土佐幽考及和名抄光仁天皇宝亀九年に幡多五郷在り枚田郷戸内村に高知坐大明神有高持の者の社也都味歯八重事代主神は大和国高市の社又波多神社と同神也と云う幡多地方の最古の社と云う現在の本殿下には磐坐有上古の神体と云はれている本殿は明和五年十一月江戸中期の桃山式を残すとして昭和三十年二月県の有形文化財である昭和二十六七年神社の合併の議有により神社本庁の承認により曽我神社外七社をこの社の境内神社としている又昭和二十一年より国家神道の中止宗教法人法の施行により神社法人となり前宮司篠田善吉より現任宮司となりているこの神奈備の森が古代を語る国造主の遺跡であることもすでに土佐古代史により考証されている今后国の重要文化財指定を念ずると共に前宮司の残せし功績を示針として益々神明奉仕に保存管理を期すものである現在土佐の神道考古学の上から論証されている上古の社は高知市一宮土佐神社 朝倉神社 南国市朝峯神社が上古の神奈備森と云はれている昭和三十年初より念願の石文を誌す也、幡多五郷は現在の入野郷大方町不破郷中村市鯨野郷土佐清水市山田郷今の山奈を呼んでいる、土佐古代史考古学の研究では波多国造主と都佐国造主の二つが大和朝十三代成務天皇の頃一つとなると云う小立足尼と呼んでいる延喜式内社の鎮座せる近くには古代の遺跡古墳を有していることを語るべき也この社の北西方には聖武天皇神亀元年開山と云う三十九番延光寺在り南東方には治承初年と云う平田太郎俊遠の二重山城跡有又西方に天文初年開山と云う一条初代房家二代房冬公土佐一条国司の墓地藤林寺在り又年代未詳の兼松城布本城跡等在り北方に彌生初期と云う高岡山古墳を有すこの社との深い関係有りと云う土佐国年記事略古城略史寺院誌歴史年表を参考とするこの社の古式大祭日は旧九月二十二日とされている、昭和二十年一月内務省より県社の内示有るも神道指令にて中止される天文初代より宮林藤原の臣幡多郡和田村住の神主の奉仕により大正初期迄十四代と有しが松平藤佐神職辞任により大正十年十月より前篠田善吉宮司就任となる旧幡多郡奥屋内村より現代に至る篠田源八郎藤原朝臣重里の子孫也温故知新の言葉がある古きを尋ねて現代に照せと解する平田郷土に生れ育つ我々は遠い祖先の歩み行いしことがらを思考し今日あるを静かに省みる時自然の理を神々の恩頼加護を受けているを痛感するものである昭和四十年五月宮司就任より神の命示として朝夕に奉仕し古典に則り神道国学本義の理念を有しつゝ今后共古代史郷土史研究に歩む者である。
(「由緒史碑文」より)

 神社の創立は土佐古代史考古学神社史料により皇紀十代崇神天皇波多国造朝といわれる平安時代初期藤原時平の勅進した延喜式神名帖にのる土佐二十一坐幡多三社の一であり国司領主の崇敬厚くいくたびかの社殿の造営あり元久初年より天文十三年四月土佐一条三代房基氏より現本殿明和五年十一月宿毛領主山内源蔵橘氏篤の修復により江戸中期二百十余年を経ている昭和三十年二月十五日県有形文化財指定を受く明治四十二年十一月及昭和十二年十一月旧平田村氏子中前宮司篠田善吉等により修理せるも年月の老朽白蟻の損害多くして県市の修理費広く町内氏子有志の募金により総工費四百八十八万二千余円により昭和五十二年十月廿三日本殿幣殿を修復したものである平田郷土の歴史の森であり幡多地方の古代を語る古社として永く石碑に誌し永遠に守り伝えるものである。
(「高知坐神社修復記念碑」より)

「由緒史碑文」「高知坐神社修復記念碑」拡大写真はこちらで

神社遠景
入口に立つ台輪鳥居
「高知県保護
有形文化財
高知座神社本殿」碑
参道の様子
石段の参道
境内入口
境内の様子
拝殿
拝殿に掛かる額
本殿覆い屋左右から
本殿左の境内社、左から
聖神社、皇太子宮、曽我神社、天満宮
境内社:聖神社 境内社:皇太子宮
境内社:曽我神社 境内社:天満宮
本殿右の境内社、左から
柴折神社、仁井田神社、大船神社、飛龍神社、覃鳥神社
境内社:柴折神社 境内社:仁井田神社
境内社:大船神社
境内社:飛龍神社 境内社:覃鳥神社

ご神木・イチイガシ