石土(いわつち)神社
南国市十市石土4327(平成23年4月1日)
東経133度36分27.9秒、北緯33度31分20.7秒に鎮座。
この神社は高知龍馬空港の西約7km、石土池の西に鎮座しています。式内社・石土神社に比定される古社で、神社の後方は石土山と呼ばれており、石土洞という鍾乳洞もあるそうです。
道路から下りると境内の入口には文久3年生まれの狛犬がおり、参道には二基の鳥居が建立されています。境内に入ると左手には手水舎・社務所が配され、右手には蔵王権現が祀られ、その後方下には昔の行者さんが修行したと思われる男蛇(雄蛇・白蛇)・毒蛇の穴という洞窟が広がっています。その右手には階段があり、石祠のある磐の上に登る事ができます。
拝殿と本殿は境内奥に横向きに建立されています。
蔵王権現後ろの洞窟は如何にも不可思議な感じがして、古代人が信仰心を覚えたのも納得できる景観でした。
御祭神:石土毘古命
祭礼日:7月1日〜7月10日・お山開き大祭
境内社:蔵王権現
由緒:御本殿 伊勢皇大神宮御下賜御料材
御祭神 石土毘古命勧請年暦不詳
在十市ノ里池ノ端一日本記二曰伊弉諾ノ尊入レ水ニ吹二生ス磐土命一続日本後記二曰承和八年八月辛ノ丑以二土佐ノ國石土ノ神ヲ預シム宮ノ社ニ一
54代仁明天皇御宇承和8年(1110年前)
60代醍醐天皇の延喜5年(1052年前)延喜式格制定
延喜式社土佐の國二十一社の其の一にして神明帳に成る日本國内上格の御官者は神祇官より直接幣帛を捧げらる谷重遠先生の土佐の國式社考に詳なり。
御神霊は神秘にして掛巻も毘けれども伊邪那岐の命の御子綿津見の命の次に生れさせ給ひし上筒男の命中筒男の命底筒男の命の御替名が此大神である事は本居宣長先生の古事記伝に明なり。
霊徳高く長宗我部山内公歴代崇敬の御神元海南学校教諭寺石正路先生史蹟調査の結果によると300有余年前修験者此神社より伊豫國新居郡瓶ヶ森に勧請し延喜式社なりと衆人に呼かけても朝庭に於せられては御記録の通りにて此郡此村にして寸分の紛れなしとて御変更なかりしとか其の後伊豫新居岡市の境なる伊豫の地高嶺に遷座してより本名高嶺の名は次第に廃れ現在の石鎚山となる石鎚神社は延喜式社に非ず、…中略…石鎚神社は元土佐の國より分霊したるものにして土佐長岡の石土毘古の命と原祠を稱すと記せり(石鎚山先達記に有り)
当石土神社は、夙に太政官符に列し日本有数の神社にも拘らず明治初年より大正の末期迄おろそかとなり誠に畏れ多き次第なりしを竹内丑太郎が再興し横田早馬達の努力により今日の隆盛をみるに至りしは限りなき大神の御威徳と一般信者の奉献の賜として記す。
社頭 |
入口に立つ案内
「日本一社延喜式社
石土神社」 |
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境内入口にいる文久3年生まれの狛犬
浪速型のずんぐりとした力強い狛犬です。
狛犬の拡大写真はこちらで |
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(文久3年(1863)亥5月吉日建立) |
一の根巻鳥居 |
鳥居に掛かる額 |
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境内に立つ二の鳥居 |
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境内の様子 |
拝殿前に立つ社号標
「日本一社延喜式社
石土神社」 |
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拝殿 |
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拝殿内の様子 |
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本殿覆い屋と本殿正面 |
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鎮守の杜と蔵王権現 |
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蔵王権現入口 |
社号標 |
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蔵王権現拝殿 |
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蔵王権現本殿 |
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蔵王権現本殿右に聳え立つ大磐 |
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大磐下に祀られる石の御神像と守護の狛犬 |
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極小さな狛犬ですが、しっかり土佐型の特長を保っています。吽には角が付いているようです。とても可愛かったですよ。
狛犬の拡大写真はこちらで |
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社殿後ろの大磐下の洞窟
東西に分かれ、東の穴を男蛇(雄蛇・白蛇)の穴、西の穴を毒蛇の穴というそうです。 |
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ご神木 |
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