高知市朝倉丙2100(平成19年3月31日)
この神社はJR土讃線・朝倉駅から100m程西の踏切を北に越えると、すぐに入口があります。200mも続く長い参道からは、神体山である赤鬼山が、神社の背後に聳えているのが良く見えました。境内入口には土佐二代藩主・山内忠義公が寄進した石灯籠が建ち、奥には重厚な拝殿や国重要文化財指定の極彩色の本殿、境内社などが、落ち着いた佇まいの境内に建立されていました。因みに、高知県において本殿が重要文化財の神社はこの社の他に、一宮の土佐神社、宇佐の鳴無神社、中村の不破八幡宮の4社のみだそうです。又、狛犬も5対もおり、その内の一対は今回の7泊8日の「淡路・四国 狛犬捜しの旅」での一押しの狛犬となりました。
御祭神:天津羽々神(一宮土佐神社祭神・味鋤高彦根命の后神)、合祀:天豊財重日足姫天皇(斎明天皇)
境内社:倉稲社、荒倉神社、忠魂社等
例祭日:7月24日・夏祭、11月23日・秋祭 他
由緒:旧県社で土佐の二宮といわれる式内社です。御祭神の天津羽々神はこの地の開拓神であり、天豊財重日足姫天皇即ち斎明天皇はその後年この地の朝倉宮に幸せられた縁により、後に合祀されました。昔は「高賀茂大明神」「橘の広庭の宮」とも呼ばれていました。中世以降も武家の崇敬が篤く、山内氏歴代藩主も社領寄進や造営につとめたそうです。(神社名鑑より)
JR土讃線の踏切を越えて すぐの神社入口と注連柱 奥に一の鳥居 |
参道途中の 二の両部鳥居 |
神社入口にいる昭和9年生まれの構え獅子。 狛犬の拡大写真はこちらで |
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(昭和9年(1934)4月吉日建立) |
朝倉神社神体山・赤鬼山 赤鬼山の名の由来は「斎明天皇が百済救済のために朝倉宮に遷られた時に、雷神の怒りを買う様な出来事があり、多くの者が病で死に、又、天皇が崩御された時には朝倉山の上に鬼があらわれ、大笠を着て喪の儀式を覗いていた。」という言い伝えがあることから付けられた名のようです。 |
参道途中の三の両部鳥居 | 参道に咲く杏?の花 |
境内入口の四の鳥居 | |
土佐第二代藩主・山内忠義公が寄進した石灯籠 | |
境内入口にいる大正15年生まれの構え獅子。身体の半分はお尻と太股で、こんなに下半身の発達した狛犬はそうそう居ません。さぞや素晴らしい跳躍力の持ち主なのでしょうね〜。 狛犬の拡大写真はこちらで |
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(石工・前田嘉? 大正15年(1926)10月吉祥日建立) |
杉の葉の緑と桜の淡いピンクの花の中、重厚な拝殿が一際際立って見えます。 |
拝殿前、弘化4年(1847)生まれの子守狛犬。阿吽共に小さな子狛を連れています。周囲を警戒して見回してはいますが、穏やかな優しい良い顔つきをしています。どちらかというと江戸流れタイプで、私達はこの手の優雅な狛犬を、京都・永観堂の「見返り阿弥陀像」に因んで「見返り狛犬」と命名しました。阿の子狛は親の前脚を噛んで何かおねだりをしているようにも見えますし、吽の子狛は親の尾の上で短い手足を必死に伸ばして落ちまいと踏ん張っています。微笑ましい親子関係で、子狛が可愛いですね。 狛犬の拡大写真はこちらで |
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(弘化4年(1847)8月吉日建立) |
国重要文化財指定・江戸期再建の流造、極彩色の本殿 平成2年に修復が行われ、国の指定により日光東照宮の塗料と同じものを使用したそうです。 |
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本殿木鼻は珍しく虎でした。 | |
境内社・忠魂社 | |
忠魂社前にいる大正8年生まれの狛犬。 阿吽共に後側の前脚を岩の上に置いています。この狛犬も優しく賢そうな顔つきで、尾や鬣は土佐タイプの特徴である大きな渦を付けています。 狛犬の拡大写真はこちらで |
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(大正8年(1919)3月吉日建立) |
境内社・荒倉神社 |
荒倉神社前にいる嘉永元年(1848)生まれの「見返り狛犬」。 今回、7泊8日の「淡路・四国 狛犬捜しの旅」での一番の収穫がこの狛犬です。実物は本当に惚れ惚れするほど優雅で気品に溢れた感じだったのですが、写真写りが今一よくありません。このタイプは江戸期の狛犬で何対か見かけたのですが、明治になると消えてしまいました。どの狛犬も石工名が無かったのですが、同じ石工さんが造り、その方一代だけの傑作だったのでしょうか? この狛犬達も子守狛犬で、阿の子狛は親の前脚を噛んでいるか、授乳中のように見えますし、吽の子狛は親の尾から背中に這い上がろうとしてしがみついています。 狛犬の拡大写真はこちらで |
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(嘉永元年(1848)5月建立) |
境内社 | 境内社・倉稲社 |
境内に咲く真っ赤ツツジの花 桜とツツジか一緒に見られるなんて、なんとラッキーなんでしょう。 |
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