横須賀市緑ヶ岡34(平成22年5月3日)
東経139度40分8.99秒、北緯35度16分38.76秒に鎮座。
この神社は汐入駅東の緑ヶ丘女子高校と聖ヨゼフ病院の間の小丘の中腹に鎮座しています。
入口は高い石垣が組まれ、下の境内玉垣近くには弘化3年生まれの狛犬がいます。社号標も鳥居も下の境内中央に立てられ、参道脇には珍しい寄せ燈篭が奉納されていました。
再度石段を上がると社殿の建つ境内で、金属製の灯籠の後ろに拝殿、本殿鞘堂が建立されています。社殿左には境内社が一社、右には合社が祀られ、その合社前にはお狐様とはじめの進化系がいます。
御祭神:健御名方命、事代主命他五柱
祭礼日:新年祭・1月1日、節分祭・2月節分の日、創立祭・3月23日、例大祭・5月25日に近い日曜日、恵比須祭・10月20日
境内社:大鳥神社、稲荷社、天王宮、伊勢皇大神宮、東照宮、天満宮他
由緒:康暦2年(1380)足利義満の頃、三浦貞宗が横須賀の鎮守として、長峯城の城口当る当地古谷山に、信州の上下両諏訪明神を勧請した。
三浦貞宗が中心になり城下の横須賀村の人々によって祭られていたが、三浦氏が滅亡後祭祀権は地頭郡代を先達として次第に村の民衆の手に移った。慶長8年(1603)、徳川家康に将軍宣下して慶長11年(1606)、平和な世になったので、代官長谷川三郎兵衛の発起で村の人々により、社殿・境内の大改修を行い農漁の守護神として崇敬を受け(棟札文による)以来永く代官の三浦郡中鎮守の遥拝祈願所に指定された。(寛永8年・享和2年の版文による)その後、村の民衆もまた神社や境内を整備し祭祀を怠らなかった。(歴代の棟札文による)明治以来も崇敬者は変らず、その結果明治6年12月、明治政府より村社に列格され、明治40年4月30日、幣帛供進指定社となった。
続いて昭和3年5月21日、郷社に昇格した。更に昭和17年、内務省神祇院十七総第二号通牒を以って、県社昇格の内許をうけ氏子で指定改築工事中に終戦となった。
戦後宗教法人のもとで、当時昭和22年5月16日、氏子会が発足し、民主的に神社を氏子の手によって維持し今日に至っている。
(「神奈川県神社庁公式サイト」より)
社頭 |
神社入口 |
下の境内にいる弘化3年生まれの狛犬 柔和な顔つきで太めの体型、やや前脚の短い狛犬です。関東大震災の折、この社に避難していた人達の荷物にも火が移り、この狛犬もその時に被災したそうで、阿の裏面は剥離しています。忘れてはいけない歴史を、その背中に刻んでいる、貴重な狛犬といえますね。 狛犬の拡大写真はこちらで |
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(弘化3年(1846)丙午初秋穀且建立) |
参道途中に立つ明神鳥居 | 社号標 |
下の境内の様子 とても変わったデザインのこの灯篭は「寄せ燈篭」といいます。 |
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上の境内への石段参道と境内入口 | |
上の境内の様子 | |
拝殿 | |
本殿鞘堂 | |
合社 | |
合社内の各社殿、左から | |
大鳥神社、稲荷社 | 天王宮 |
伊勢皇大神宮 | |
東照宮 | 天満宮 |
合社前にいる稲荷社の神使い・お狐様 | |
合社前にいるはじめ狛犬 はじめの進化系ですが、不敵な面構えの非常に良くできた狛犬です。踏ん張った前脚と引き気味のお尻で、今にも飛びかかってきそうな姿勢は、如何にも気合充分…といった気力が感じられ、たくさんのお社を護るに相応しい狛犬です。 狛犬の拡大写真はこちらで |
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境内社 | 大震災避難記念碑 |
御神木 | |