横須賀市長浦町5ー15ー1 (令和6年3月27日)
東経139度38分44.50秒、北緯35度17分15.03秒に鎮座。
この神社は、JR横須賀線・田浦駅の東南東400m程の辺り、長浦町の街外れに鎮座しております。
御祭神 日本武尊・橘媛命
由緒
創祀については創立当時の事情年代は不詳であるが、吾妻半島(現在は運河により区切られて吾妻島となり、米軍の用地として立ち入りのできない区域になっている。)の中の吾妻山山上に鎮座し、日本武尊・橘媛命の御威徳を敬仰、鎮齋され、中世には吾妻権現とよばれて、海上安全をはじめとするその顕著な御威徳は近郷民衆の崇敬の中枢となっていた。『新編相模國風土記稿』三浦郡巻之九長浦村の条には、「吾妻権現社 村ノ北方山上ニアリ。社頭松樹數株アリテ海上通船ノ標トナセリ。祭神ハ橘樹媛命。神躰木造。村持。」の記載がある。
伝承によれば、弟橘媛命の御入水ののち、御屍がこの浦に流れ寄りきたのを葬り奉ったものとも、または、媛の御入水の際に、日本武尊が握り遊ばされていた姫の衣の片袖が、命の御手に残ったのを収め祀った所とも、あるいは、媛の御櫛が流れ漂っていたのを拾い上げて、浄地山上に納めて二尊を奉祀申し上げた所ともいわれる。
中世には、田の浦常光寺が当社の別当職となったが、その濫觴は、源実朝の家臣であった鈴木三郎常廣の二男常光が、主君が非業の最期を遂げたことに無常を感じて、比叡山に登って得度し、三浦衣笠に常光寺を営んだが、吾妻社が時を経て荒廃しているのを見てこれを改修し、衣笠より来りて庵を結び奉仕したことによるという。
爾来、鎌倉武将を始め、近郷一円に多くの崇敬者を有して修造も常に行われてきたという。
明治6年(1873)村社に列格。明治32年(1899)、吾妻山一帯が海軍用地として買収されたため、幾星霜由緒の深かった長浦字長浦1979の吾妻山を離れて、現在地に位置を移し、社殿の大改装も加えて遷座奉祀するところとなった。
しかし、大正6年(1917)大暴風雨のため拝殿が倒壊。大正13年(1924)氏子崇敬者により仮拝殿を再建するものの、再び大風により倒壊したという。
昭和21年(1946)6月宗教法人令により宗教法人となった。氏子区域は有せず、田の浦神明社の氏子会と、長浦神明社の氏子会とが合同で奉仕している。例祭には湯立て神楽が奏される。
境内由緒書き より。
参道
鳥居
神額
社殿
「十八度大願成就」富士講のようです。