道念稲荷神社

横浜市鶴見区生麦4-27-18 (平成24年6月13日)

東経139度40分36.63秒、北緯35度29分33.95秒に鎮座。

【神社情報・剣貝さんより】
京急本線「花月園前」又は「生麦」駅より徒歩10数分の所、旧東海道に面して鎮座しています。生麦、東海道と言えば生麦事件、「生麦」駅より当神社へ旧東海道を歩きますと、途中に事件発生現場を通ります。参道の左右に石仏がありますが、謂れは分かりませんでした。

御祭神 倉稲魂命
御由緒
木村(生麦町)中央にして東海道往還へ接す。宝暦三癸酉二月再建す、とあり現在じゃもかも祭を行っている。
神奈川県神社庁>稲荷神社 より

生麦岸谷の総鎮守として杉山神社があり、北の八幡宮、南の水神宮、原の神明社、本宮の道念稲荷というように、各字には氏神様が祀られていました。本宮の氏神様「道念稲荷神社」は武蔵風土記稿によると、「往還ノ中程 字 元宮ニアリ 海道ヨリ入口ニ石ノ鳥居ヲタツ 是ヲ 道念稲荷ト云フ 前ニ蟠ル松アリ 龍泉寺持ナリ 社地ノ入口左ノ方ニ石地蔵四尺ナルヲ建ツ」と記されており、枝振りの良い松があった事がしのばれます。・・・・中略・・・・
郷土史家の池谷健治氏の説によれば、建武の昔、南朝の重鎮新田義貞の子義興が延文三年十月十日、矢口の渡しにおいて、竹沢右京亮、江戸遠江守らの謀にかかって憤死した折、従者の一人道念坊が逃れて、岸谷の奥房野に庵を結んだとの事、武蔵風土記稿にも「コノ地ニ稲荷アルヲモッテ字モ稲荷台ト云フ」とあり、徳川幕府によって東海道が開け、この地に分社したものが、岸谷稲荷、本宮稲荷と同列に書かれた文書も多くあります。奥房野道念稲荷は明治になって杉山神社境内に遷座しました。
西部本宮町会ホームページ>第27章 生麦村の神社(下) より

参道入り口

鳥居

寛文8年(1688)8月念仏講同行二十人造立 明和3年(1766)3月地蔵講供養佛

参道

社殿

左側不明の御堂

石碑や玉垣等

生麦事件発生現場、この先に稲荷神社があります

生麦事件記念碑

案内図

生麦事件は、幕末の文久2年8月21日(1862年9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件である。尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから薩英戦争(文久3年7月)が起こった。ウィキペディア より

後の「薩英戦争」を経て、倒幕へとつながる、幕末の大事件であったようです。