横浜市港北区綱島東2-10 (平成23年6月24日)
東経139度38分28.27秒、北緯35度32分5.82秒に鎮座。
【神社情報・剣貝さんより】
東急東横線「綱島」駅より数分の所に鎮座しています。駅からは綱島街道を通りますが街道側入り口には鳥居がなく、参道は坂です。反対側の入り口は鳥居と石階段があります。二つの入り口を結ぶ参道の途中に境内への道があります。境内に入りましたら、む
!狛犬の阿は看板を支えていました。管理の女性に写真を撮らせて下さいとお願いしましたら、快く承諾してくれました。
御祭神 建御名方命
御由緒
綱島は往昔綱島三郎信照の采色で、永禄の頃武田家の家臣が信濃国諏訪明神を勧請し社殿を建立した。
新編武蔵風土記稿に「諏訪社、字下にあり是も南北の鎮守にて前に鳥居を建つ、石階三十五段を上り又五十級よじて社前に至る、神像長さ九寸許、前に神鏡を置く、勧請詳かならず、例祭7月27日」とある。
明治6年12月村社に列格。昭和48年壮大な社殿が完成、同49年の整備を完了した。
平成2年には御大典記念の玉垣365本、平成14年春には愛子内親王殿下御誕生を記念し、国旗掲揚塔が氏子より奉納された。
神奈川県神社庁>諏訪神社 より
由緒
当地は往昔綱島三郎信照の采邑であり、天正(1573年〜)の頃は近藤五郎右衛門正次を首領とする甲州武田の家臣は各々領有していた。「綱島十八騎」と聞こえし武田の家臣団は信玄に倣って信濃の国諏訪明神を深く信仰し、その境内から桜の一枝を折り、此の地に下る時、馬の鞭として馳せ参じた。
綱島の山上に来て遠く信濃の国を遥拝し「我が武運の長久を守らせ給え、若しその験しあらばこの桜の枝に根を付かせ給え」と念じ地に差した処、根が生じ年を経て大木に育った。将にその霊験は、小田原攻め・関ヶ原での勲功に顕れ、知行を受けて神威の顕現を報謝し、茲に慶長十年頃(1605)諏訪明神を勧請して当社を創建したと伝わる。
現在残る記録によれば元禄十二年(1699)に再建が営まれ、その後数度の造営の後、明治六年南北綱島の鎮守として村社に列各。
大正十二年震災のため倒壊したが昭和元年に再建。しかし、昭和三十六年七月十日、不審火により神体像を除く本拝殿等悉く焼失する。爾来十年余の歳月、仮殿での奉斎を余儀なくされたが、多くの町民の赤誠溢れる奉賛と懸命の努力により、昭和四十八年現社殿竣功。十月二十七日正遷座祭が斎行され面目を一新する。平成二年には御大典奉祝事業として玉垣建立及び境内整備整備完工す。
境内由緒書き より
神社入口
石段の親柱 見 石工 飯嶋吉六 文政13年(1830)庚寅7月吉日 | |
力石
燈籠の台座彫刻左・右
手水舎
拝殿
やや猫背の江戸流れ。しかし、素晴らしい出来映えです。拡大写真はこちら。 | |
(石工 見橋 飯嶋吉六 天保12年(1841)辛丑7月日建立) |
狛犬の台座に「天保十二重光 赤奮若文月」と刻まれています。調べてみますと下記サイト(古文書初心者のためになるサイト)を見つけました。(古文は学生の時はさぼりました)重光(じゅうこう)は十干の異名で辛のこと。赤奮若(せきふんじゃく)は十二支の異名で丑のこと。「天保十二重光赤奮若文月」は「天保十二辛丑(1841)旧暦七月」となります。
古文書なび>十干・十二支の異名 より
本殿
金比羅宮
稲荷神社。金比羅宮の右手に鎮座しております。
網島街道の入り口と社号標 | |
庚申塔
道祖神
片方だけの狛犬