熊野神社

横浜市港北区師岡町1137 (平成24年6月30日)

東経139度38分19.47秒、北緯35度31分14.76秒に鎮座。

【神社情報・剣貝さんより】
東急東横線「大倉山」駅より東へ徒歩10分程の所に鎮座しています。別名サッカー神社、サッカー日本代表の公式エンブレムのついた日本サッカー協会公認のお守りや絵馬が販売されています。御朱印を受ける間、社務所の人の会話が聞こえてきました。「土曜と重なり想定外の人出、印刷物が無くなってしまった」と。

御祭神 伊邪那美命・熊野夫須美命・事代主之命・事解之男命・加具土命・天忍穂耳命・速玉之男命・水波能売命・瓊瓊杵命・伊邪那岐命・埴山比売命・木花開耶姫命・天照皇大神・稚産霊神・彦火火出見命・須佐之男命・天之鈿女命・鵜葺草葺不合命

御由緒
この神社は聖武天皇神亀元甲子年(西暦724)に全寿仙人によって開かれ熊野山の中腹に鎮座し和歌山県熊野三社の祭神と御一体であります。仁和元年7月には光孝天皇の勅使六条中納言藤原有房卿が此地に下向され「関東随一大霊験所熊埜宮」の勅額を賜わりそれ以来宇多、醍醐、朱雀、村上天皇の勅願所として社僧十七坊が附せられた。
数多くの古神事の中に現在続行されて居る筒粥神事は1050回余にもなる。
観応2年6月17 日雷火のため社殿は焼失したが神体、社宝は無事であり特に貞治3年の熊野山縁起は現存して神社の故事を伝えて居る。例えば勅使着用の大口袴は大口の地名に残り、供奉者の足を洗った子安足洗川、顔を清めた西寺尾町字面滝、馬の鐙を納めた鐙宮(阿府神社)参向儀式の行われた式坂、更にいの池(指定地域史跡)、のの池ちの池の故事等、枚挙にいとまがない。享禄2年北条早雲公、慶長4年徳川家康公、寛永19年家光公、寛文5年家綱公より御朱印地を戴いたのを始め代々の将軍家の崇敬極めて篤く神社への御朱印は幕末まで続けられた。
明治元年神仏分離の際、熊野神社と法華寺とに二分され明治3年県社に列格したが、氏子の陳情する所あって明治6年三十三ヶ村の郷社に列した。中略
当社は、関東地方における熊野信仰の根拠地として、また、横浜北部の総鎮守の宮として古代より現代に至るまで広く篤い信仰を受けている。
神奈川県神社庁>熊野神社 より

熊野神社公式サイトはこちら。

参道入口対面の、「い」の池。

弁財天社

参道と狛犬(平成18年5月吉日)

入口脇の稲荷社

参道階段

今日は夏越の大祓。大祓詞の奏上でしょうか

土曜と重なり想定外の人出

大祓(おおはらえ)は、6月と12月の晦日(新暦では6月30日と12月31日)に行われる除災行事である。犯した罪や穢れを除き去るための祓えの行事で、6月の大祓を夏越の祓(なごしのはらえ)、12月の大祓を年越の祓(としこしのはらえ)という[1]。6月の大祓は夏越神事、六月祓とも呼んでいる。なお、「夏越」は「名越」とも標記する。輪くぐり祭とも呼ばれる。
ウィキペディア より

拝殿と親子4人+1人+指導員。茅の輪の潜り方の指導でしょうか。

本殿

日本サッカー協会公認の絵馬 千葉市のサッカー少年?の絵馬もありました。(後ろ)

手水鉢

庚申塔と、のの池の碑。

「の」の池

天満宮

神明社

振り返って

権現山広場

御朱印