大綱金刀比羅神社

横浜市神奈川区台町7-34 (平成24年7月14日)

東経139度37分41.27秒、北緯35度28分3.87秒に鎮座。

【神社情報・剣貝さんより】
京急「神奈川」駅より徒歩数分、JR「横浜駅」より10数分の所に鎮座しています。元々は今の境内後方の山上にありました。その後山下へ仮殿を構まへて御神体を遷座しています。山の中腹にあった金毘羅社を合祀、大綱金刀比羅神社と改称しています。昭和60年裏山が崩壊し、当時の仮殿が崩壊、現在の所に新たに建立したとのこと。天狗の面は御神木の松から彫り出したものです。さしづめ立木天狗ですかね。

御祭神 大物主神・金山彦神・日本武尊・大山津見神
末社 三宝荒神社・火之迦具土神・奥津島比売命・市杵島比売命・多岐津島比売命・闇淤加美神・闇御津羽神・宇迦之御魂神

御由緒
旧東海道、神奈川宿台の坂に鎮座し、往時は東海道を上り下りする旅人は道中の安泰を祈り、また、すぐ下の袖が浦神奈川港に出入りする船は海上安全を祈願して出港し、街道すじには回船問屋が軒を連ね繁栄を極めていた。古来、飯綱大権現、金刀比羅大権現と称してきたが、明治二年、太政官通達により大綱神社、金刀比羅神社と改称し、さらに明治四十四年、両神社を合祀し大綱金刀比羅神社と改称した。治承四年(1180年)平安時代、源頼朝は伊豆国石橋山の一戦に敗れ安房国へ小舟で逃れようとしたが、逆巻く浪は雪を噴いて渡航することができず如何にせんかと心を砕き、日頃の疲れにうとうとまどろむ中に大権現の神霊現れ『汝思い惑はず目指す安房の国に渡るべし、海上に憂いあらば吾よく守護してその難なからしむべし』と告げ終えるとそのお姿が見えなくなった。頼朝、目覚めて後あまりの不思議に言葉も出なかったが、さしもの浪風も忽ちに治り難なく安房国へ渡り、源家再興を企て後に天下を我がものとした。頼朝は深くこの時の鴻恩に感じ、勝軍飯綱大権現とあがめ奉り、文治年中に青木山上に一宇を建て武運を祈った。又この袖ヶ浦から出船した者は、必ず此所で護摩を修めてから諸国へ出航したものだと言う。
弘化四年(1847年)、句碑『吹行やひともすすきの秋のかぜ』
神奈川県神社庁>大綱金刀比羅神社 より抜粋

大綱金刀比羅神社と一里塚
この神社は、社殿によると平安末期の創立で、もと飯綱社といわれ、今の境内後方の山上にあった。その後、現在の地へ移り、さらに琴平社を合祀して、大綱金刀比羅神社となった。かつて眼下に広がっていた神奈川湊に出入する船乗り達から深く崇められ、大天狗の伝説でも知られている。
また、江戸時代には、神社前の街道両脇に一里塚が置かれていた。この塚は、日本橋より七つ目に当り、土盛の上に樹が植えられた大きなものであった。

地図を見ると、飯綱社と呼ばれた頃の山頂まで、すっかり住宅地となっています。横浜駅にも近いこの辺りは早くから宅地として開発されたのでしょうか.

参道入口の社号標と鳥居

参道

手水鉢

拝殿と立木天狗

拝殿内部

旧殿地

横浜弁財天&龍神社

八臂弁財天像

龍神池 稲荷社
荒神社 句碑・弘化4年 (1847)

御朱印