横浜市神奈川区東神奈川2-9-1 (平成24年8月4日)
東経139度38分27.37秒、北緯35度28分37.19秒に鎮座。
【神社情報・剣貝さんより】
神奈川新町駅を出、そのまま線路づたいに仲木戸駅方向に歩いて行くと、間もなく線路を挟んだ右側に笠のぎ稲荷神社があります。
お祭りの準備で大変お忙しい時に御朱印を受けたく社務所にお伺いしました。待っている間も人が右へ、左へと忙しく移動、そんな中書いていただき恐縮してしまいました。
御祭神 宇迦之魂命
配神 明治天皇・日本武尊
御由緒
天慶年間 (九三八〜九四七) に、淳和天皇勅願所浦島院勧福寿寺の僧侶が隣域の山腹 (稲荷山) に社殿を建立し、伏見稲荷大社の御分霊を勧請したことが創祀と伝えられ、同寺の守護神、附近一帯の産土神として崇敬を集めていました。文永十一年、蒙古来寇の折りには、鎌倉の執権北条時宗が菊一の銘刀と神鈴を奉納して、国家の安泰を祈願しました。戦国時代に兵火に罹災してしまったものの、永禄二年九月十九 日に再興なって大祭を行い、元禄二年九月十九日には稲荷山の中腹より山麓に遷座する運びとなりました。これより神威益々加わり、社前を通行する者の笠が自然と脱げて地に落ちたことから、「笠脱稲荷大明神」と称されるようになり、後に別当能満寺の阿闍梨が笠脱の一字を訂正し、禾に尊い皇を添えて「笠のぎ稲荷大明神」と改称しました。
神奈川県神社庁>笠のぎ稲荷神社 より
宇迦之魂命(うかのみたまのみこと)を祭神として祭る笠のぎ稲荷神社は、社伝に寄れば、平安時代の天慶年間(938〜947)に、淳和(じゅんな)天皇勅願所浦島院勧福寿寺の僧侶が、現在の浦島が丘の稲荷山の中腹に社殿を建立し、京都の伏見稲荷大社の分霊を勧請して創祀しました。元寇の際には北条時宗より神宝が奉納されました。元禄2年(1689)に山麓にうつされ、霊験ますますあらたかとなり、社前を通行する者の笠が自然と脱げ落ちるということから笠脱稲荷大明神とも呼ばれ、後に、別当寺能満寺の阿砂利が笠のぎ稲荷神社と改称し、明治2年に現在地に祀られました。明治2年(1869)、旧社地が鉄道敷設用地に接収されたため、現在地に移り、1884年村社に列格されました。関東大震災、横浜大空襲で社殿を失い、現在の社殿は昭和54年(1979)に新しい形式で再建されたものです。例祭日は8月8・9日に近い土・日曜日。また、この神社には土団子を供えれば病気が治るという特殊信仰もあります。
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街角に立つ社号標
「神奈川宿歴史の道」案内板に見る「稲荷社」。良仙寺前は東海道。現在は国道15号線。
安政元年(1854)、日米和親条約締結の舞台となった神奈川宿。その後の日米修好通商条約で、開港所と定められたこの地は、本覚寺がアメリカ領事館に、長延寺がオランダ領事館にと、多くの寺が諸外国の領事館に充てらたようです。しかし、良仙寺(現在は良泉寺)は本堂の屋根をはがし、修理中であることを口実に、幕府の命令を断ったといわれています。
京急のガード
神社入口
手水鉢
拝殿
拝殿前の狐様 | |
拝殿内部
本殿
境内
裏参道入口
京急車両基地
御神木「子宝安産の大楠」
御朱印