横浜市神奈川区入江1-13-16 (平成24年8月4日)
東経139度39分12.76秒、北緯35度29分1.21秒に鎮座。
【神社情報・剣貝さんより】
JR(京浜東北線のみ)または京急「新子安」駅より西へ徒歩数分の所に鎮座していまが、駅から行きますと社殿の裏へ着きます。参道は長く、途中一般道で分断されています。そこに一組目の狛犬がいます。その台座には「大正十二年六月修繕之石工金子久太郎」とあり、狛犬自体は「安永七戌 (1778)年正月吉 日」。二番目の狛犬の台座には「明治十三年(1880)二月」と「昭和二年(1927)九月吉日」と刻まれています。台座上の狛犬は明治の狛犬を追い出した昭和のもので、もと台座に居た三組目の明治の狛犬はここから参道階段途中に移動、木に埋もれて居ました。
御祭神 | 主祭神 | 素盞嗚尊 |
配神 | 事代主命、保食命、面足惶根命、水速廼売命、海津見命、塩土老命、船玉姫命、表筒男命、豊玉姫命、瀬織津姫命 |
御由緒
当神社は武蔵国(東京都・埼玉県一円・神奈川県の東部)の一之宮(埼玉県大宮市、元官幣大社)氷川神社を本社とする洵(まこと) に悠久なる歴史を持つ神社であります。永禄4年9月1日、107代正親町天皇の御宇(紀元2221年・西暦1561年)、現在地に勧請創立され、明治の初年ごろまでは一之宮大明神、一之宮明神社と称され、光輝ある武蔵風土記にも不断の由緒を有し、古伝説もあり霊威赫々尊崇感謝の奉祀がいまに続いております。
神奈川県神社庁>横浜一之宮神社 より
子安の地は神之木台遺跡、大口坂遺跡、その他があることからも推察されるように、縄文時代の昔より人間にとって住みやすい環境が与えられた所でした。我々の祖先は、海や山から自然の恩恵を受けて生活していたことでしょう。特にこの場所は、現在でも海を臨むことの出来る小高い丘ですが、近代に入り、海岸線を埋め立てるまではもう少し高い山でした。東海道沿いに展開した子安の濱野漁師にとって、漁場を定める目印となっていたそうです。当然、漁師の信仰を集め、また東海道沿線ということもあり古くから小祠を以ってお祭りをしていたそうです。その後、永禄四年(紀元二二二一年、西暦一五六一年)九月一 日第百六代、正親町天王の御宇、武蔵國(埼玉県、東京都大部分、神奈川県東部)の一の宮、元官幣大社氷川神社(埼玉県大宮市鎮座)の分霊を現在地に勧請したところから、「一之宮大明神、一之宮明神社」等と称されて居ります。江戸時代、徳川幕府の官撰地誌の最初である「新編武蔵風土記稿」にも収録され、白髯老神の伝説などもあり、連綿と祭祀が今に続いて居ります。
以下省略・境内掲示より
一の鳥居
昭和3年(1928)11月建設、子安濱漁業組合 | |
参道を横切る一般道
参道途中の江戸尾立。拡大写真はこちら。 | |
(安永7年(1778)戊戌正月吉日建立) 「大正十二年六月修繕之石工金子久太郎」 |
参道と社号標
狛犬と二の鳥居
昭和二年(1927)九月吉日奉納の岡崎型狛犬。 | |
台座に見える「明治十三年二月」の文字。昭和二年に現在の狛犬に取り替えられたようです。
二の鳥居 | |
文化九壬申姑洗(陰暦3月の異称) | 石工 飯島吉六 |
不明の末社
昭和岡崎型に追われ、窓際ならぬ境内片隅で侘しく余生を送る、明治の先代様。 | ||
手水舎
拝殿
拝殿内部
本殿
萬歳殿
末社・右、愛宕社・他御神名不明
一体だけの先代様。相方がおらず何やら寂しそうです。
稲荷社。小雨が降ってきました。
地神塔と末社
武蔵御嶽神社
三峰神社&金比羅神社