横浜市磯子区中原4-24-17 (令和6年12月26日)
東経139度36分59.44秒、北緯35度22分52.28秒に鎮座。
【神社情報・「狛犬さがし隊Kさん」より】
この神社は、京浜急行・杉田駅の西200m程の辺り、中原四丁目緑地内に鎮座しております。
御祭神 家津美御子大神・伊邪那美大神、事解之男神、伊邪那岐大神・速玉之大神、天照皇大神・建御名方命・日本武尊命
由緒
当社の由来は建久3年(1192)征夷大将軍になった源頼朝が、鎌倉の山崎にあった泉蔵院の僧 真締智覚法印に治国安民の祈祷を命じたことに遡る。頼朝の命を受けた智覚法印は、我が国第一の霊場とされて居た紀州熊野に参籠して幣帛を捧げ、三所権現の御分霊を樟の舟に乗せ、祈りを込めて海に流した。樟舟は神意のままに中原の海岸に流れ着き、この事が将軍に伝わり、頼朝は御神慮の有難さを感じて、近くの地に神殿を建てるよう智覚法印に命じた。
智覚法印は東に海を望む景勝の当地を選び山上に熊野三所権現社を祀り、山裾に紀州山桐谷寺を建立すべく同年5月6日に着工し11月15日に完成した。
後に桐谷寺は山号を大霊山泉蔵院と改め、熊野三所権現社の別当として当社に奉仕し、国家安泰・万民和楽の祈願を続けて来た。その間文禄3年(1594)9月社殿再建、正徳5年(1715)社殿は改築され規模は9尺に2間であった。その後安政4年(1857)にも再度改築が施された。
明治初年の神仏分離令により社名を熊野神社と改め、法印は神職となり、約700年続いた泉蔵院は廃寺となった。明治42年(1909)神社統合令により村内の中原明神・諏訪神社の2社が合祀された。大正4年(1929)社殿の改築が行われ本殿は二間に一間半の神明造り、幣殿は二間に一間半、拝殿は二間半に二間半向拝付銅葺の建物となった。
昭和61年(1986)35代宮司杉原章夫の折、氏子・崇敬者より社殿新築の議が起こり、氏子総代寺田勝彦氏が建築委員長となり、大同建設株式会社岡田文夫氏・大工棟梁両角賢治氏にて施工され、昭和62年(1987)12月に現社殿が完成した。本殿二間に一間二五神明造り、幣殿は二間に一間七五、拝殿は三間に二間唐破風付銅葺きである。平成4年(1992)には創建八百年の奉祝祭が執り行われた。
境内由緒書き より。
参道入口
二の鳥居
拝殿
境内入口の狛犬。拡大写真はこちら。
(年代不明)
神額
芭蕉句碑「梅が春に のっと日の出る 山路かな」
句碑「梅が春に 腹ふくるるや 帆かけ船」雪中庵蓼太
石燈籠