神明社

横浜市保土ケ谷区神戸町107 (平成24年7月14日)

東経139度36分4.82秒、北緯35度26分57.7秒に鎮座。

【神社情報・剣貝さんより】
横須賀線「保土ヶ谷駅」(東海道線はホームなし、湘南新宿ラインは通過)より北へ徒歩10数分の所に鎮座しています。当神社の最寄駅は相模鉄道「天王町」駅です。徒歩数分の距離。本社に天照大御神を祀り、伊勢神宮同様、豊受大神宮(外宮)があります。横浜市内にはたくさんの「神明社」があります。「神明宮」「神明神社」「天照大神」などを合わせると現在38社あります。
当神社公式サイトより

一帯を支配していた榛谷重朝をはじめとする畠山一族が所領安堵の為、積極的に伊勢神宮へ所領を寄進して伊勢神宮を勧請したため、とも考えられている。
境内社については、神明社公式サイト>御由緒>神明社境内神社

御祭神 天照大御神

神明社御由緒 (旧伊勢神宮領 榛谷御厨(はんがやみくりや)総鎮守)
今から一千年以上むかし、保土ヶ谷の地が榛谷とよばれていた、平安時代の中頃、天禄元年 (九七〇)、当社の御祭神・伊勢の天照皇大神が、武州御厨の庄の内、榛谷の峯に影向し、それから川井、二俣川、下保土ヶ谷の宮林へと三遷の後、嘉禄元年 (一二二五)、神託があって、神明の下宮を造り、当地を神戸と号し、神宮寺を満福寺と名付け、経蔵堂を神照寺と称したという。これにより榛谷御厨八郷の総鎮守として広大な社領を免ぜられ、宮司以下数十人の禰宜・社人・供僧・巫女が仕え、年に七十五度の祭祀を営み隆盛を極めたという。その後、戦乱の時代に一時衰退したが、天正十八年 (一五九〇)、徳川氏入国の時、社殿の造営が行われ、御朱印地が安堵された。また元和五年 (一六一九)、宮居を神戸山々頂から現在の処に遷し、社殿の造営、社頭の整備が行われた。明治二年の修営には、明治天皇御東行の時、本陣苅部清兵衛宅に臨時に建てられた鳳輦安置所の材を下賜された。明治六年、村社に列せられ、神饌幣帛料供進の神社に指定された。中略
平成十二年、神奈川県神社庁献幣使参向神社に指定された。
当神社栞 より抜粋

境内案内図

神社入口

鳥居

参道

石燈籠・寛政4年(1791)壬子正月吉日

手水舎&注連柱

水神社

清流&人形(ひとがた)流し

神楽殿&授与所

天照太神宮・拝殿

拝殿内部

天照太神宮・本殿

豊受大神宮・拝殿

拝殿内部

豊受大神宮・本殿


天満宮

末社

稲荷社

月読社&風宮

参道、振り返って

切部之王子社・日之王子社・鹿島社

神輿庫

山車庫

御朱印