中郡二宮町山西2122 (平成22年5月2日)
東経139度14分28.58秒、北緯35度17分48.75秒に鎮座。
この神社は、相模湾の中央の北側、小田原厚木道路・二宮ICの南1km程の辺りに鎮座しております。緑に囲まれた静かな落ち着いた神社で、相模国二宮に相応しい雰囲気を湛えています。
御祭神 大名貴命・大物忌命・級津彦命・級津姫命・衣通姫命
由緒
当社は相模国の二の宮で、古くから二宮大明神と称し、延喜式所載の名社である。十一代垂仁天皇の朝、当国を磯長国(しながのくに)と称せし頃、その国造阿屋葉造(あやhのみやつこ)が勅命を奉じて当国鎮護のため崇招せり。日本武尊東征の時、源義家東下りの時、奉幣祈願ありしを始め、武将の崇敬深し。人皇十九代允恭天皇の皇妃衣通姫命(そとおりひめのみこと)皇子御誕生安穏のため奉幣祈願あらせらる。一条天皇の御宇永延元年、粟田中納言次男次郎藤原景平当社の初代神官となり爾来今日に及ぶ。建久三年、源頼朝夫人平産のため神馬を奉納せらる。建長四年宗尊親王鎌倉に下向ありし時、将軍事始の儀として奉幣神馬を納めらる。北条相模守、小田原北条、小田原大久保等皆累世崇敬深く造営奉幣の寄進少なからず。
徳川の朝に至り家康公九州名護屋出陣の際祈祷札を献上殊の外喜ばれ御朱印地五十石を寄せらる。爾来徳川累代将軍に及ぶ。正月には必ず江戸城に登城して親しく年礼申上げ御祓札を献ずるのが例となり幕末まで続行せり。明治六年郷社に列せられ、昭和七年県社昇格の御内示を受け現在に及ぶ。
境内由緒書より。全文はこちら。
相模国一の宮・寒川神社に次いで、二の宮に位する。社伝によれば、垂仁天皇の時代、この地の有力者であった磯長国造阿屋葉連により創建されたいい、「延喜式』に名の載る式内社のひとつである。近世には、川勾村・二宮村など6村の鎮守で、宝永4年(1707)の富士山噴火による社殿破損修理の際には、当社の由緒を理由に幕府に800両の拝借金を求めている。現在の社殿は江戸時代まで朔るものではないが、当社は建物修復に関する史料をはじめ多数の古文書を所有しており、近世の様相を窺うことができる。毎年5月5日に大磯町の六所神社で行なわれる国府祭には二の宮として参加し、一の宮・寒川神社と上席を争い座問答を行なうことで知られる。この神事は、平安末頃の地方武士団と在庁官人の勢力争いに起源を置くといわれ、一の宮・二の宮の歴史の古さを示すものといえよう。
神奈川県公式サイトより。
御祭神の級津彦命・級津姫命は相模国が相武と磯長の二国に分かれていた頃、磯長国を開拓した神と云われ、その時代、この神社は磯長国一宮であったと云う。
神社遠景と社号標
神社入り口
鳥居
随神門
境内より見る随神門
境内
拝殿。神奈川の建築物100選、江戸時代と書かれています。
拝殿前の岡崎型狛犬
(昭和5年(1930)6月吉日建立)
本殿
修理中の本殿
末社
この石鳥居は文久元年第三十三代神官二見景賢代に大門参道入口に建立されたものです。正和四十五年道路改良工事による大鳥居新設に伴い撤去されたものです。
社号額字は明治三十年大磯別邸に住まわれた侯爵伊藤博文公の揮毫によるものです。
神楽殿
夫婦杉(縁結び・安産)
川匂神社の御祭神の一柱である衣通姫命は允恭天皇と結ばれました。名前のとおり美しさが衣を通して光り輝くといわれ、皇子の誕生には、当社に安産を祈願したといわれています。衣通姫命を縁結び・安産の神様と敬い良縁・安産を願う方は夫婦杉の間を祈願しながらお通り下さい。
忠魂碑