高来(たかく)神社

中郡大磯町高麗2-9-47 (平成22年5月2日)

東経139度19分39.95秒、北緯35度19分8.1秒に鎮座。

この神社は、相模湾中央部は大磯。大磯の北側には、湘南平から高麗山にかけて大磯丘陵と呼ばれる、小高い山が連なっており、一説には千二百もの横穴式古墳があると云う。その東外れ高麗山。その高麗山東山麓に鎮座して折ります。

高来神社(高麗寺)の由来
当山の縁起は古く明らかではないが、神武天皇の御代の開闢と伝えられています。垂仁天皇の御代に神皇産霊尊と瓊々杵尊を祭神とし、安閑天皇の御代に応神天皇と神功皇后が合祀されたとあります。
神功皇后が三韓を征伐した時に神霊が御出現して勝利に導きました。因って武内宿禰は奏して東夷静謐の為に、神皇産霊尊(高麗大神和光)を当山の韓館の御宮に遷し奉りました。これが高麗権現社の起源であります。
高来神社奉納木遣に、応神天皇の御代に邪険な母国を逃れた権現様が唐船(権現、明神丸)で大磯に渡来されて、この地を開発されました。(これは続日本紀の霊亀二年(716)に武蔵国高麗郡の開発に郡令として向かわれた若光がモチーフと考えられます。)又、大磯の浦(照ヶ崎)で漁をしていた蛸井之丞の小舟に小蛸が上って来たかとみると舳先に千手観音が御立ちになりました。舟の者共伏し拝み、高麗山にお遷し致しました。夏の大祭には蛸井之丞の子孫が宮神輿の先供をして権現、明神丸の船屋台が前後に従い照ヶ先の祭場に渡御されます。(近年舟屋台は隔年の出御です)
養老元年に行基僧正が巡国の折にお祀りしてある千手観音を高麗権現の本地佛とお定めになりました。これより神仏習合の地として山頂の高麗権現と下宮の千手観音とを併せ祀り、高麗寺別当の司る所となりました。齋衡年間(855)に円仁により本社の左峰に毘沙門塔を右峰に白山社を建立されました。鎌倉時代には幕府の崇敬厚く後白河法皇の仏事に與り、政子の平産祈に神馬を奉りました。建長七年(1255)に定禅坊が牛王刻印を献上し、弘安十一年(1288)に鐘が鋳造されました。僧坊は二十四を数え高麗寺の最盛期で神像群もこの頃に造られました。室町時代には足利氏の内乱で高麗山が攻防の場となり、戦国には北条小田原城を上杉、武田勢が攻め果たさず、引き上げの途中に高麗寺も戦火に遭い白山社と毘沙門塔を焼失しています。
天正十九年(1591)に徳川の時代となり家康より寺領百石と山林を賜はり、後、東照権現が併せ祀られ地頭の治める所となりました。春の大祭は家康の命日、四月十七日に因み行われ山神輿の登御、町内の植木市で賑わいます。
明治になり神仏分離され寺物は地蔵堂に移され、高麗神社と改称され、明治三十年に高来(たかく)神社に改称されました。
境内由緒書より。

ここ大磯から、北へ50km程行った、埼玉県日高市の高麗神社。由緒書に「霊亀2年(716)5月、甲斐、駿河、相模、上総、下総、常陸、下野7ヶ国から高句麗人1,799人を武蔵国に移し、高麗郡を創建した」と記されています。武蔵国高麗郡に移された高句麗人1,799人の中には、ここの住人も入っていたようです。因みに高麗神社の御祭神は高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)。高句麗人を送り出した、ここ大磯には伝説のみ残り、地名となったようです。境内由緒書、創建、御祭神のくだりは明治の神仏分離以降のお話かと思われます。江戸時代の御祭神は勿論「高麗大権現」。

「村名は同寺名にちなみ」「高麗の名は、古く当地辺りに高麗人が住したところにちなむ」『新編相模風土記』より。

江戸時代、高麗寺には、徳川家康を御祭神とする東照宮が祀られていた為、参勤交代の際、諸大名は下馬して参詣せねばならなかったと云われる。しかし、明治の世になり、これが災いしたようです。この高麗寺は徳川幕府の滅亡ととも廃寺となり、今は末寺の慶覚院のみとなっています。
それにしても、家康はいたくこの地がお気に入りだったようです。大磯丘陵の外れにあり、馬入川に近いこの地は、軍事的に重要な場所であった為と、思われます。

由緒書や境内案内図等

社号標と一の鳥居

旧参道。左手が高麗山。山頂までは約30分。

二の鳥居

参道入口の狛犬。実に堂々とした江戸流れです。拡大写真はこちら。

(年代不明)

地蔵堂跡に建つ慶覚院

参道。嘗てはこの間に仁王門があり、仁王像は大磯町郷土資料館に保存、展示されているそうです。

境内

拝殿(旧観音堂)

拝殿の彫刻

本殿

神輿殿


上宮(旧高麗権現社)への入口。左は男坂。右は女坂。

平嘉久社

男坂の様子

高麗権現社が建っていた大堂(高麗山山頂)

昔から日本と朝鮮の文化交流は深く、相模国をはじめ東国七州の高麗人を武蔵国に移して高麗郡をおいたと「続日本紀」には書かれています。奈良時代のころ高句麗は唐・新羅に滅ぼされ、日本に難を逃れた人も多くその中に高句麗王族のひとり高麗若光もいました。若光は一族をつれて海を渡り大磯に上陸、日本に帰化してこの山のふもとの化粧坂あたりに住み、この地に高度な文化をもたらしました。高麗若光と高句麗の人達が住んでいたことから、この地が高麗と呼ばれるようになりました。

上宮跡。地元の方でしょうか、永く手を合わせていました。

山頂付近より見る相模湾。海からもこの山は良い目標になったと思われます。


高麗山霊水、御供水(龍神)。

神明宮

竜神宮

道祖神

杉本稲荷大明神

青木宮


忠魂碑と靖国之塔