神明大神

水神社

 中丸子神明大神の境内を入ると南側に水弾さまの木造の小社が立っている。この水神さまは初期には弁財天社としてまつられていたが後に水神さまと呼ばれるようになったらしい。現在の社殿は、明治二八年の本殿改築の際に同時に改築されたもので、当時はその周りに池があって、参詣する人は橋を渡って島の中央にある社殿に参詣したという。現在ば農業の神であるということが伝えられるのみでくわしいことはわからないが、『中丸子の閑話』(一九六五年)には次のように書かれている。
水神様
 水神社の位置は神社境内の西南端で、古くは大きな池があり、その中の島に祠があって、参道は橋で渡るようになっていた。お宮の森が茂っていた頃は池の廻りは物寂しく、子供達は恐ろしくてこの池へ近寄ることさえ出来ない程で、お宮の主である大蛇が住んでいるといわれていた。どんな干天続きでも年中水の切れることはなく、水稲の「種つけ池」であった。水神祭は夏祭と呼ばれ、初めの頃は五月八日であったが後に六月十日に改められた。水の神様であるため農家の信仰も厚く特に多摩川の砂利堀が繁昌した頃の水神祭は秋の大祭以上の盛大さであった。
 また、藤嶋とみ子氏の「中丸子神社の水神様と神木」(『川崎研究」第三一号一九九三年)には、大正末から昭和九年頃にかけて、多摩川の砂利を採る仕事に従事した農家の人たちや、更に砂利採取業者にも水神さまは水難防止の神として崇められた。と、書かれている。
 また、七月一〇日には水神祭が行われていたというが、水田がなくなり用水が下水になったため、祭りをやらなくなってしまった。当時は四本竹に注連縄をはり、その中に釜を置いて湯を沸かし、平の方からも来ていたという参詣者に榊で湯をふりかけたという。
 農業の生命線であると同時に砂利採取者の守護神として、住民に大切にされていた水神さまも、昭和三六年の都市計圃の影響を受け、池は埋め立てられ、大部分が南部沿線道路の敷地となってしまい社殿のみがひっそりと佇んでいる。
(平田美雪)