以下の文章は平田美雪と言う人が書かれたようですが、神社でもらった物が既にコピーで、元は川崎市が纏めた地域の歴史かと思われます。以下そのまま掲載します。
中丸子の神明大袖は、明治三三年までは「羽黒大権現」と呼ばれた古社で、現在は祭神に稲田姫命天照大神をまつるが、本地仏は阿弥陀・薬師・観音で、行基作と伝えられる木像が現存している。この神社はかつて「眼病や足腰に効く」といわれていた。原三喜氏の『中丸子の閑話』(一九六五年)に明暦三年(一六五七)に無量寺の僧である天順が書いた縁起が載せられている。
羽黒大権現縁記
拝謹出羽国天正年中に奉勧請、羽黒大権現と称し一字(ママ)のお宮あり、本地は弥陀、薬師、観音の御化身行基菩薩の御作なり、ここに生国は会津若松の者、名は小寄三蔵と申して道中の馬方仕つり、江戸に住んで年久しく、我中風の病をうけ半身叶はず歯も落ち、舌内もとならず様々養生致すといへども治せず、営みければ非人となり、此所彼所と乞喰し、川崎宿より此の村にたどりき、御宮を宿とし、所を廻り月日を送り三ヶ年余り御宮、居住仕り候事近辺に隠れなし然る処、かの非人行歩叶はねば一日二町三町ばかり程片手片足にて行き帰り仕り、その上髪髯は生え茂り身くさくして目もあてられぬていなりき、承応三年甲午六月中旬に何国ともなく山伏一人来り、彼の非人に申様、汝さように身けがわらしうして此の御宮の住居申になりがたし早く出家して名を弥海と改めよ、とて山伏はうせけり、それより法人弥海と呼びしなり、同年九月下旬より夜な夜な玉川より立燈上りき、人々不思議に思ふところに同じく霜月中旬より極月初めの頃まで夜の四ツ時分に、ここうに、かんおふかんおふと呼声聞えけり、これも、妙なる御告げと肝をけし不審に思ふところに同極月中旬より御宮なり動き不思議様々なりければ、いよいよ信心凝らし御宮を浄め祈念致すところに同極月下旬より大雪降り積り、路をとじ、人の通ひなき故、弥海所に出ざる間営みが末、病いや重なり、社二十日余り去らず、雪をかんで命を継ぐ苦労の余り請ひ願ふは神力にて我病治せずば命をとり給ふようと山中に深く行念したりき、承応四年乙未の正月十一日の夜半過ぎ寅の刻に有難くも羽黒大権現二十年ばかりの御僧と現じ弥海を呼び出し我はこれ此宮の権現なり汝一命を懸けて祈る間、薬を与へんと金色の御手のべ一粒の御薬口の内へ下し給へば叶はざるの手足、弁舌、自由になり、落ちたる歯も三十三枚生え出る、この歯水晶の如くにして一代さひず、然れども腰は立ぬや汝が祖父、馬の足を打折りし、あやまちにより、いざりになすと御神の勅ありその当り七、八町四方は、さながら日中の如くになり神は上らせ給ふ、弥海ここに、うつつともわきまえず御誼を拝し奉り、それより近所の古川へ行き氷を砕き水を浴び愈々御神前を拝み、夜明十二日の早朝には古き踏を、ひざにはき、乎にもはいて、四ツばいにはいずり廻る、処の人々に此の由を語れば彼の弥海より、あり様を見て信心行命して其後御湯茶を捧げ奉れとて江戸神明のねきみこ、を呼び湯祭を致しくれ種々の御託宣あらたなり、此の時氏子共、申様、たとへ前生の異業なりとも御神力の上はなし、御湯の余りを弥海に浴びせ、いざり腰をたてよと誓ひ、大藁一把御湯茶に入れ、彼の弥海に浴びせ、ひた打に打ちければ忽々にのび、かけ出で別当寺に行き、前後を忘れ二夜三日伏しけり。こののちは五体が元の身となり此の宮に香花を捧げ、その後は御宮仕ひ致しき、みよふの御蔭など出し申し候、因って明暦丁丙の正月まで貴賎群集して、はやらせ給ふ、江戸町在所に近国の来詣の人々様々の立願が叶ひ申候、仁と数多ありしこと江戸近辺にかくれなしと侍りけり、明暦元年乙未六月より御宮建立あり御本社とちふき、拝殿こけらぶき、色々の彫物仕り、極座いたしきなり、明暦二年酉申の二月八日に御遷宮あり其の日より御神木さいかちの木の上に白蛇あらはれ十七日遊びけり諸人拝み申事隠れなきなり、誠に古今の建立なればとて御宮の額を朝鮮人に書かせけり、未(まま)社は日光、月光、神明、いなり、座王、弁財天、御本地宮、御ゑい堂、之有候、然りといへども鳥居、玉垣、建立この頃時節悪しく成就不仕候に付此の縁記奉加帳の序に、しるし此節方々へ出し度ものや
瑠璃光山別当 無量寺
時明暦三丁丙年三月吉辰
社僧 天順記す
この縁起を見ると、羽黒権現は天正年間(一五七三〜一五九二)に勧請され、承応三年(一六五四)から四年にかけてこの御宮に住んだという小寄三蔵(のちに弥海)という人物が羽黒権現の神力によって病気回復、明暦元年(一六五五)まで江戸の方からも参詣人が集まり、明暦二年(一六五六)に社殿建立となったとある。
この神社が眼病や足腰の病気に効くという言い伝えはこの縁起によるものであり、また縁起の中に「御湯の余りを弥海に浴びせ、いざり腰をたてよと誓ひ、大藁一把御湯茶に入れ、彼の弥海に浴びせ、ひた打に打ちければ忽々にのび、かけ出で別当寺に行き、前後を忘れ二夜三日伏しけり。こののちは五体が元の身となり…」とあるが、この神社では昭和の初めまで六月か七月頃に釜に湯を焚いて、禰宜が榊で皆に湯をかけるという、いわゆる湯立ての行事が残っていたという。氏子総代の会長の原光好氏(大正七年生まれ)は、そのお湯を目につけると目が良くなるといわれて子どものころにやったのを覚えているという。この行事からも、特に昭和初期以前までは縁起をもととする信仰が根付いていたことを物語っている。
中丸子村の起源は天正一八年の北條氏の滅亡により、その家臣がこの地に帰農したのがはじまりといわれ、この地では現在も七苗と呼ばれる七つの宗家(原・野口・小宮・妙摩・亀谷・戸神・渡辺)があって、明治九年には七三軒から八三軒あったという。前掲『中丸子の閑話』によると、 神社には古く座敷持と称する資格があり、これは代々その家についたものであった。今の世話人のようなものである、神社行事の際その座席が決っていて、他の者はそこに座ることが出来ない、座敷持はその代り神社諸掛も一般氏子の者よりも多く出すことになっている。神主の扶持割として一般氏子は白米一升であるが座敷持は二升五合であり、社殿の屋根替のときも一般氏子が茅十把であれば二十把、三十把と多く出すことになっている。その後都合で自退(まま)する者も出始め、時勢の変遷もあって明治三十二年には廃止した。当時の座敷持は次の通りである。
野口松吉 野口守蔵 野口芳太郎 原八郎兵衛 野口正次 原小太郎 小宮三吉 野口新蔵 原団之丞 戸神源左工門 妙摩勘七 亀谷増蔵 渡辺三郎右工門 十三軒とあり、ここにあげられている一三軒はすべて七苗の子孫で、古くから神事の中心を担っていたようである。
現在の世話人は七苗とは無関係に、南・中・西・東・共明会橘・親和会・親交会の八町会の氏子のうち、旧住民が住む南・中・西町会から九名の総代を選出する。そのうちの一名が会長、もう一名が副会長となっている。かつては南・中・西の三町会が五軒ずつ順に当番をしていたが、現在は各町会にわたって常任世話人が八○名おり、原則として各町会へ当番の割り当てをしているが、実際はそのうちの二〇名ほどが行事の手伝いに来るという。なお、かつて別当を務めていた無量寿の住職は総代の1人になっており、その関係で行事に参加しているという。
神明神社の行事としては、元旦祭式典をはじめとしてオビシャ祭(一月七日)、水神祭(七月一○日)、秋季大祭(一〇月八日)、七五三祭(十一月一五日)、大祓祭(十二月三一日)がおこなわれている。
(平田美雪)