佐助(さすけ)稲荷神社

鎌倉市佐助2ー22ー12 (平成24年3月25日)

東経139度32分31.52秒、北緯35度19分15.97秒に鎮座。

【神社情報・剣貝さんより】
JR鎌倉駅から長〜い参道階段下までは徒歩20分程の距離です。商売繁盛、出世稲荷として、また伊豆へ流刑になっていた頼朝のもとに走ったという北条政子の情熱が佐助稲荷神社と結びつき恋愛成就の神様となっているとのこと。下社横には縁結び十一面観世音(良縁うすく、諦めて仏門に入られた美しき姫君、赤松幸運がこの世の若い男女に良縁あらんことを祈りつつ彫られたと伝えられています)が安じられております。銭洗弁財天宇賀福神社の帰りに当神社を参拝される人が多いようで「湿ったお札を使う人がいる」と。近くのお寺でも同じことを耳にしました。せっかく洗ったお札です。お札が一歩も鎌倉を出ないうちに使うとは・・・もっと有効に使ってほしい。本殿参拝中でもタイワンシマリスは石燈籠の上でうるさく鳴いていました。

御祭神 宇迦御魂命・大己貴命・佐田彦命・大宮女命・事代主命

御由緒
伊豆に遠流されていた源頼朝の夢中に、当社の神霊が翁の姿をかりてあらわれ、義兵を挙げ民を安んずべしとの託宣を授けて、旗挙げをすすめた。そして頼朝はその神託により功をおさめた。佐殿頼朝を助けたので佐助と云い、建久年間(1190〜1199)源の頼朝が、畠山重忠に命じて再建させた。当社は、古くは鶴岡八幡宮の非常の際の御拠所として、同宮の飛地境内末社であった。
神奈川県神社庁>佐助稲荷神社 より 境内由緒書きはこちら。

佐殿
「佐」は官職、左右に各1名。もっとも著名なのは右兵衛権佐に任じられた源頼朝である。平治の乱の際にこの職に任じられた頼朝は20年に及ぶ流人生活(厳密にはこの期間は官職を剥奪されているが)を経て平家を倒し、文治5年(1189)に権大納言に任じられるまでの30年間(公式には計10年)この官にあった。このため、頼朝に仕えた御家人達は頼朝に敬意を払って「佐殿(すけどの)」と呼んだのである。
ウィキペディア  より

源十郎 ・弥十郎事 (佐助稲荷霊験譚)を今風に
昔、源十朗と云う魚商人がいました。魚を荷なって由比ヶ浜を通ていると、犬が狐を追って走って来ました。狐には生死にかかわる難なので、源十朗が荷なっていた籠の中へ飛び込みました。源十朗はこれを見て不憫(ふびん)と思い犬を制して狐を助けました。その夜の夢に狐が現れ告げたのは「御情によって私は今日の難を逃れました。その御恩に報いる為に来ました。源十朗殿、今の仕事を止めて、佐介谷で蘿蔔(らふく)を作れば、大きな幸が得られます」と云うのを見て、目が覚めました。源十朗は俄かに納得できなかったが、狐の教えに随って、佐介谷の土地をかりて蘿蔔を作りました。その年の冬、鎌倉中に疫病が流行り、この病に罹ると10人中8,9人が死でしまいました。皆、此の事に嘆んでいると、ある人の夢に神が現れて「佐介谷で源十朗が作った蘿蔔を買て食べれば病はたちどころに治る」と告げた。この夢のお告げを鎌倉中に披露したら、先を争って彼の蘿蔔を買い求め、食べた者の病が治ったと云う。その為蘿蔔が減って行くにしたがって高値になっていき、源十朗はたちまち大金持ちになりました。これは狐の教によるものとして、稲荷明神の社を建てました。それが今(当時)の神社です。蘿蔔はすずしろ ・大根のこと。(大根は当たりませんが治ったとは・・・)

つづきがありますが稲荷と関係ないので。少しだけ。
その後の彼の行状が悪く、財産を没収され鎌倉を追放されてしまいます。再度大金持ちになったとき、同じ失敗をしないよう名前を弥十郎と改めました。ご赦免になり、また鎌倉へ帰ることができ、人々から感謝される人になりました。おわり

参道左手の下社

社号標

参道

良縁が有ります様に

さらに続く参道

拝殿

お狐様たち

本殿への階段

本殿

石灯籠上のタイワンシマリス

鎌倉市では、民家の天井裏などに住み着き、庭の果樹をかじる、物干し竿を伝い歩きすることによって洗濯物を汚す、電線や電話線をかじるなどの被害が出ている。また英勝寺では、市指定天然記念物であるワビスケの樹皮が剥がされる被害がでている。鎌倉市では、1999年からタイワンリスに対する餌付けを禁止し、捕獲作業を行っている。捕獲を開始してからは、年々捕獲数、被害相談件数ともに減少している。
ウィキペディア より

霊狐泉

裏山

現在の由比ヶ浜

御朱印