神奈川県伊勢原市
ここ大山は丹沢山塊の東端に聳える山で雨降山(あぶり)とも呼ばれ,古くから多くの信仰を集めた山です。山頂に奥社があり、延喜式神名帖に相摸国大住郡・阿夫利神社と記載のある、所謂式内社です。相模国の出身と言われている、奈良東大寺の別当・良弁の開創で、かつては別当八大坊をはじめ十八ヶ坊を擁したという。開山は天平勝宝四年(752)と言うから、延喜式が編纂された頃には既に神仏は習合していたと思われます。それ以降明治の世になるまで、相州大山・石尊権現と呼ばれ山伏が飛ぶが如く駆けめぐっている、修験道の聖地だったようです。しかし、慶長十年(1605) 徳川家康の命により修験者たちは下山し、坂本と蓑毛に住した。これら山下に移住させられた妻帯修験者をはじめ僧・神職は御師となり、大山信仰を宣布し信仰圏の拡大を図って大山登拝の講を組織した。江戸時代には幕府の庇護を受け、庶民の間では大山講が関東一円に組織され参詣者が増え繁盛振りを見せた。その信仰の最盛期は宝暦年間(1751-64)であり、年間20万人にも達し、中腹の坂本村や矢倉沢往還の大山入口に当る伊勢原村は全て大山道の起点として目覚しい繁盛を見せた。と言われています。
大山寺(おおやまでら)は、神奈川県伊勢原市にある真言宗大覚寺派の寺院である。大山不動の通称で知られる。山号は雨降山(あぶりさん)。本尊は不動明王。開基(創立者)は良弁(ろうべん)と伝える。
高幡山金剛寺、成田山新勝寺と共にしばしば「関東の三大不動」に数えられ、江戸期には江戸近郊の観光地として賑わい、落語にも「百人坊主」として題材に取り上げられるほど、広く一般に浸透した。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。
正式名称は雨降山大山寺(うごうさんたいさんじ)。(あぶりさんおおやまでら)はあくまで通称のようです。
明治の神仏分離により、「石尊大権現・大山寺」の称は廃され、廃仏毀釈の嵐の中、本堂伽藍をことごとく破壊され、同時に多くの宝物文化財が失われたようです。残された神社は「阿夫利神社」と改称され、明治六年(1873)
には県社に列格しています。
慶応四年三月二十八日神祇官事務局達
一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細に書付、早早可申出候事、但勅祭之神社、御宸翰、勅額等有之候向ハ、是又可伺出、其上ニテ、御沙汰可有之候、其余之社ハ、裁判,鎮台,領主,支配頭等ヘ可申出候事
一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事、附本地仏と唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事右之通被仰出候事
要するに権現や牛頭天王び類は外来のものだから使うな、又鰐口、梵鐘等の仏具は取除けと言っております。
一旦は廃寺となった大山寺ですが、
「明治6年現在の場所に仮屋を建てご本尊が安置され、明治18年周囲20Km内の村々による材木に寄進や、日本各地の人々による浄財の寄進により9年間にのぼる難工事のすえ本堂が竣工し、盛大に祝われる。」
大山寺公式サイトより。