日枝神社

平塚市中原3-20-16 (平成22年5月2日)

東経139度20分5.24秒、北緯35度20分44.98秒に鎮座。

この神社は、JR平塚駅の北北西3km程の辺り、平塚市の住宅街に鎮座しております。

日枝神社御由緒
祭神 大山咋命・徳川家康
日枝神社は昔は山王社と言われた。文禄年間徳川家康公が鷹野の遊殿を中原に建築の際当社は御殿の鬼門に当たるので方除鎮護のため再三にわたり修営をされた。寛永十七年十二月(1640)に御社を現在の地に遷座された。徳川家代々崇敬の厚いお社であった。明治四十二年二月三日雑社東照宮を合祀した。境内地894坪現在の社殿は昭和三十七年十月改築した。
境内由緒書より。原文はこちら。

ここより南西500m程の辺りに中原小学校があるが、嘗てその辺りは徳川家康が鷹狩等の際、宿泊所とした中原御殿(別称・雲雀野(ひばりの)御殿)であった。中原街道の由来である。江戸の虎ノ門を起点とし、東海道と矢倉沢往還に挟まれる形で延び、ここ平塚の中原に至って東海道とつながる、相州街道とも称され、江戸と中原とを直線的に結ぶ道で、中世から人々の往来が盛んな道でもあった。東海道が整備される前には参勤交代の道としても利用されたと云う。天正十八年(1590)、関東入国が決まった家康は、小田原をたった後、中原街道を通って江戸に入ったと云われています。

神社入口

社号標と鳥居

参道

境内

拝殿

本殿


東照宮

家康亡き後、中原御殿は幕府の手によって寛永十九年(1642)に修復されたが、明暦三年(1657)、明暦の大火によって江戸城が焼失。その後、中原御殿は江戸へと移送されてしまったと云う。跡地には松や檜が植えられ、その中に明暦年間(1655〜57)、東照宮(中原御殿跡東照宮)が祀られたそうです。明治四十二年、跡地に中原小学校が移転してきた為、東照宮をこの地に合祀。


天満宮・稲荷大明神・八坂神社

神明社


神楽殿

鐘楼

庚申供養塔と青面金剛像。説明はこちら。

平塚市保全樹木くすのき

忠魂碑

ここ日枝神社は明治迄は山王社と呼ばれ、その別当寺であった得願寺鐘楼の礎石。詳しい説明はこちら。