御嶽大神

藤沢市西俣野1891 (平成26年1月12日)

東経139度29分23.56秒、北緯35度22分15.01秒に鎮座。

この神社は、JR東海道本線・藤沢駅の北4km程の辺り、結構長閑な景色の中に鎮座しております。

御祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと)

由緒
建久6年11月19日の建立にして、往古脵野五郎景久の崇敬する所となり、燈明料として田地寄進ありと伝う。後寛文元年9月19日再建。寛政4年3月4日造営、嘉永3年9月19日再建、明治19年9月台風により破損、明治20年9月18日氏子中にて本殿再建、昭和12年4月15日氏子中にて拝殿改築、明治6年村社列格。
神奈川県神社庁公式サイト より

当神社は今から870年前即ち、永久5年(1117)鎌倉五郎景政がこの地に堂宇を建立、伊勢神宮の御柱(20年に1回造営)を戴き、これに大日如来・不動明王の二像を刻ませ、権大僧都頼親の室にて開眼供養して安置せり。
又、建久6年(1195)11月19日住古俣野五郎景久崇敬し灯明料として田地を寄進せりとあり、其の後景久没後後家尼(景久の妻)の悲願がきかれ、鎌倉幕府三浦義澄助力して興隆興行の儀執行される。又、承元3年(1209)源実朝が北条義時に命じ修復する。(以上旧記吾妻鏡記稿に依る。)
寛文元年(1661)9月18日再建。寛政4年(1792)3月4日再建、氏子29名。
寛政8年(1796)2月鐘楼梵鐘建立(大戦に依り供用される)、文殊院住職権大僧都阿闍梨法印決全の努力により諸信徒檀徒普化シテ完成、この梵鐘銘文実に600文字からなる長文が刻まれている。その銘文に依って御嶽大権現堅牢地神及神礼寺文殊院の混祭及び存在が明確になった。そして、明治元年(1868)の文化大革命により御嶽大神一社となった。
明治19年(1886)9月台風に依り破損する。明治20年再建、現在に至っている。
境内社左に猿田彦大神石廟、延宝8年(1680)造立、(市指定文化財)
境内社右に堅牢地神跡地 鐘堂上台地 俣野山稲荷大明神 享保10年(1725年創立)

補足
相模風土記稿のなかに「御嶽大神村の鎮守なり神体1尺1寸(38センチ)大地大日不動二像ありと言ど今は失にけり」とあり、考察すれば乱世の時代当地を治める武将が戦場守護神として道連れにもち去ったのではなかろうか。又、神礼寺蔵する大日縁起にもこの事記載せりと。又、梵鐘銘文の中にも「夫れ粛寺の開闢開基の家譜は別に旧記に存ず故に茲に贅せず」とあり、この事意味しているが現在その貴重な古文書は存在していないのが残念である。又、梵鐘の完成に努力された権大僧都阿闍梨法印決全とは位の高い人であり、昔この草深き社寺の住職となれたか大きな謎である。一説には武士階級の修験道場とも言われている。(当時、当地は幕領であった)
境内由緒書きはこちら。

参道入口

神額

石段

境内入口の江戸流れ。拡大写真はこちら。
(年代不明)

拝殿

拝殿内部

本殿


猿田彦大神石廟

平成24年10月に小栗塚より移した猿田彦大神(北向庚申様)

戦後再建された梵鐘でしょうか

一段高い所に鎮座する稲荷神社

青面金剛像 猿田彦大神