足柄下郡真鶴町真鶴1117(平成18年11月11日)
この神社は真鶴半島の中程、真鶴港・魚市場の近くにあり、739号線に面して鎮座しています。旧郷社で真鶴港を見下ろす高台に鎮座していますが、町の鎮守様として今も親しまれているようで、この日も雨の中、数組の参拝者と出会いました。普通貴船神社といえば京都の貴船神社が総本宮で、全国に約500社の分社があるといわれていますが、ここは勧請の由来から言っても御祭神(京都・高寵神、闇寵神)から見ても、京都・貴船神社とは直接の関係はないようです。又、ここは神社の規模や清々しい佇まいもさることながら、私達狛犬ファンにとっては参道、拝殿、境内社など全て合わせると大小はあるものの、狛犬6対+狐1対が棲息していることが何よりの楽しみではあります。
御祭神:大国主神(大黒さん)、事代主神(恵比須さん)、少彦名神
創建:伝承によると、寛平元年(889)、三ツ石の沖合に現れた木像12体と書状を平井翁が発見し、村人と共に社を建て、村の鎮守の神として大国主・事代主・少彦名の三神を祭神として勧請したといわれています。もとは貴宮大明神(きのみや)と呼ばれ近隣漁民の崇敬をあつめてきましたが、明治初年に貴船神社と改称しました。鳥居をくぐり上境内まで108段の石段がありますが、これは仏教で煩悩の数と言われ、これを踏み越えるので「清めの石段」といいます。
祭礼・貴船祭り(毎年7月27・28日):祭りの形は、縁起によれば江戸初期までは神座船をつくり港内の漁船や運送船の祈祷をして回ったものが、その後は村内を巡行し村祭りとして定着したといわれ、日本三大船祭りの一つにかぞえられています。同時に奉納される鹿島踊りと共に県無形文化財・県無形民族文化財に指定されています。
社伝では、寛平元年(889年)、三ツ石(真鶴岬)の沖に現れた木像12体と書状を社家平井家の祖先の「平井翁」が発見し、社殿を建てて村の鎮守としたのに始まると伝える。江戸時代まで貴宮(きのみや)大明神と称していたが、明治元年に貴船神社に改称した。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より。
社号標 | 神社入口 |
明治16年生まれの江戸狛犬。 この地域は気候が温暖で人々の性格も穏やかなのか、狛犬も太めが好まれるようで、 何処も比較的体格の良い狛犬が奉納されています。 ここも阿吽共に横広がりで頬が膨らみ少々潰れ顔の、 ドッシリと落ち着いた子育て中の狛犬です。 耳が横に張りだし先をピンと跳ね上げ、尾は単に流れるだけでなく、 渦巻いたりして装飾的に造られています。 |
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(彫刻師 当村石工・高橋源吉 紀元2543年(明治16年)1月吉日建立) | |
階段の参道 | |
階段を上がった境内入口両脇に居る昭和11年生まれの狛犬。 阿は勇む小狛の身体をそっと押さえ、吽は玉を持っていますが、阿吽の位置が反対です。 素朴な中年顔をしたおじさんおばさんという感じで、吽は鼻が低く小鼻が横に発達したところから、 オランウータンの様に見えます。瞳の部分が刳り抜かれているのが珍しいですね。 |
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(石工・平井政吉 昭和11年8月建立) | |
コンクリートの拝殿 | コンクリートの本殿 |
境内社・祖霊社 | |
祖霊社前の年代不明の小さな狛犬。 縦型蹲踞で、阿は子狛を、吽は模様入りの玉を持っていますが、 阿の左顔面に損傷が見られます。 |
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境内社・山神社(大山祗神) 由緒不詳、当地は奈良時代より石材を産出し、古来より石材関係者の 信仰篤く真鶴半島に奉祀されていたが、数次の移転改築を行い、 明治初期社殿腐朽のため当地石工組合により通称愛宕山に移転改築されたところ 大正7年3月28日、本村大火により類焼し同年10月組合により復旧したが、 土地遠隔により翌8年4月28日貴船神社境内に奉遷した。 (案内板より) |
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境内社・山神社の小さく太めの狛犬。顔型からしょうわかと思ったのですが、 尾が流してあり、江戸としょうわの折衷狛犬の様です。若々しく溌剌とした狛犬です。 |
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末社・淡島大明神、恵比須大黒社 | |
末社・淡島大明神 | 末社・恵比須大黒社 余り顧みられることがありませんが、 ここにも小さな狛犬さんが居ます。 |
階段途中右側、淡島大明神前のはじめ狛犬。 この子達は結構有名で、どんな子達かしらと期待していったのですが、 初めは、余りの小ささにビックリ!! 28センチという超小型で、 背中に万治?元年(1658?)という文字が彫られています。 阿吽の位置が反対で、顔も耳も鬣も尾もほとんど線書きに近く、 前脚お腹の下に刳りぬきは無く、吽の左前脚が欠損しています。 |
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(万治?元年(1658?)建立) | |
境内社・稲荷神社 | 境内社・船玉竜神社 |
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