紫尾(しび)神社

薩摩郡さつま町紫尾2164(平成22年1月7日)

東経130度25分55.71秒、北緯31度58分14.98秒に鎮座。

 この神社は397号線沿いの紫尾温泉に鎮座しています。というよりも、この社の拝殿の下から温泉が湧き出していることから、紫尾温泉は別名「神の湯」とも呼ばれ、400年以上も豊富な湯量は変わらない泉源だという事です。
 入口には台輪鳥居と、「元県社紫尾神社」と金字で書かれた社号標が立っています。境内は奥に広く左側には深い鎮守の杜があります。手水舎には身体をくねらせた巨大な龍の口から温泉が湧き出でています。妻入りの拝殿と覆い屋と本殿は、年輪を重ねた趣のある風情を感じさせます。
 鎮守の杜内には境内社の紫尾天神社、市指定文化財・方柱石塔婆、史跡・空覚塔等があり、この社の歴史の深さを垣間見せています。

 御祭神:天津彦瓊々杵尊、天津火火出見尊、鵜茅葺不合尊
 祭礼日:歳旦祭・1月1日 中祭、祈念祭・2月17日 大祭、夏越祭(六月灯)・7月23日 中祭、御例祭・10月29日 大祭、新嘗祭・11月23日 大祭、年末奉賛祭 除夜祭 古守礼焼上祭・12月31日 小祭、月次祭・毎月1日15日
 境内社:紫尾天神社
 由緒:祭神には天津彦瓊々杵尊(霧島神宮、新田神社、可愛山稜)、天津火火出見尊(鹿児島神宮、高屋山稜)、鵜茅葺不合尊(鵜戸神宮、吾平山稜)の神代三代を祀る県神社神社庁三級社、郡内では新田神社の次である。
古くは直接幕府将軍の祀る所であって、後国府(島津)が祭祀に当り特に山野、永野両金山を教え賜し神社であった。
明治の御代に成り5年に県社に列せられ尊崇され繁栄した。
第46代孝謙天皇天平勝宝、今から1251年前、祁答院九ヶ郷の宗社として毎年9月29日御例祭日で奉幣使巡拝され祭祀が行われており、当日は祁答院地方は無論県下全域から参拝者が多く紫尾山路は行列を作る賑わいであった。
古老の話によれば、特に永野金山を始め鉱山関係の人達の参拝はあとをたたなかったと言われている。
(「境内神社略記」より)

 旧くは「紫尾権現」と称し、また「紫尾山三所権現」とも称された。出水市高尾野町の同名神社とともに国史見在社の論社とされる旧県社。拝殿の下に紫尾温泉の泉源が湧く。
 3面の大鏡を神体とするが、それは源実朝が奉納したものと伝える。
 社伝に、孝元天皇の時代に「紫尾山」と号して創祀され、欽明天皇の時代に空覚上人なる僧が社殿を建立、「紫尾山権現」と称したという。貞観8年(866年)に正六位上から従五位下へ昇叙された薩摩国「紫美神」に充てられるが、これを紫尾山の対麓に鎮座する出水市高尾野町の同名神社に充てる説もある。上記紫尾山は神社の裏山に当たり、ともに紫尾山を信仰の対象とする山岳信仰を背景に建立された神社であったと思われ、当神社には中世に西国高野山の異名をとった「紫尾山祁答院神興寺」という供僧の坊が置かれ、修験者が群参したという。
 鎌倉、室町の両幕府に崇敬されたといい、江戸時代には薩摩藩主島津氏から尊崇され、この地域の鎮守神として社領の寄付や社殿の修復が行われた。また、寛永末年(17世紀中頃)に神託によって永野金山が発見されたことで有名になった。交通不便な場所に鎮座しているが、現在でも初詣には1万人ぐらいの人出で賑わう。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)


社頭
入口に建つ台輪鳥居 社号標
「元県社紫尾神社」
境内の様子
手水舎
身体をくねらせた巨大な龍の口から温泉が湧き出でています。
拝殿
拝殿内の様子
覆い屋と本殿
境内社:紫尾天神社
市指定文化財・方柱石塔婆
史跡・空覚塔
境内左側の鎮守の杜
御神木・アラカシ 「明治26年9月吉祥日
奉再築神門」碑
絵馬