南さつま市加世田武田17932(平成22年1月5日)
東経130度19分06.98秒、北緯31度24分23.90秒に鎮座。
この神社は加世田市街地の南西、元の加世田城の城跡に作られ、270号線に面して鎮座しています。
今は使われていない神橋と一の鳥居は270号線道路真ん中に立ち、神社の左手から奥にかけては大楠などの鎮守の杜が見事な姿を見せています。境内入口には二の鳥居が立ち、広々とした境内奥の一段高いところに入母屋造りの拝殿・本殿が建立されています。
境内右側は護国神社の社地で、社殿左側には灯籠が建ち並んでいます。その更に左側には「いろは歌四十七碑」が建っている「いにしえの道」入口があり、日新公の三男・島津尚久公の墓所や尚久公を慕って殉死した武士達のお墓もありました。
案内にもありますが、境内のそこかしこには樹齢600年といわれる大楠が何本もあり、神域を尚一層神秘的且つ幽玄な雰囲気にしています。
御祭神:島津日新公(忠良)
祭礼日:7月23日(六月灯)
由緒:御祭神は薩摩藩中興の英主・島津日新公(忠良)です。日新(じつしん)公は、室町時代の明応元年(1492)伊作亀丸城で誕生され、のち伊作島津家第十代城主になられました。当時は、戦国の世で、南九州でも戦乱が打ち続いていましたが、日新公は島津宗家から請われて三州(薩摩・大隅・日向)統一の大事業に当られました。
晩年は加世田に居住され、善政をしき、住民の父と慕われつつ、永禄11年(1568)77歳で亡くなられました。
日新公「いろは歌」は、公が日頃人間の正しい生き方について説いた教えを、54歳のとき四十七首にまとめられたものです。この歌は後世に伝えられ、鹿児島の教育の大きな柱となりました。
この境内にあった保泉寺(文明17年(1485)建立)は、公の死後日新寺と改名、廃仏毀釈により廃寺、明治6年(1873)その跡に建てられたのが現在の竹田神社です。
毎年7月23日の夏祭りには、日新公ゆかりの士踊(さむらいおどり)や、昔ながらのからくり人形(国選択無形民俗文化財)、太鼓踊り、棒踊り等が奉納され終日にぎわっています。
境内にうっそうとそびえる楠は、遠く保泉寺のいにしえからあるもので樹齢600年といわれています。
また、左手いぬまき並木の道をたずねるとその奥に日新公のお墓があります。
神社全景 |
270号線道路真ん中に立つ一の鳥居と神橋 |
社頭 |
境内入口に立つ二の鳥居 |
境内の様子 |
拝殿 |
本殿 |
社殿左側に建ち並ぶ灯籠 | 日清・日露戦役記念碑 |
いにしえの道入口 | いろは歌四十七碑由来記 |
境内のあちらこちらに聳える大楠 大楠は推定樹齢600年といわれ、室町時代創建の保泉寺の古からある大樹で、その偉容な姿は神域を一層幽玄なものにしています。 「大楠」拡大写真はこちら |
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絵馬 | |
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