宮浦宮

霧島市福山町福山2437 (平成27年2月27日)

東経130度49分18.09秒、北緯31度40分03.19秒に鎮座。

この神社は、鹿児島湾奥、東の福山町福山海岸近くに鎮座しております。

御祭神 神武天皇・天神七代12柱・地神五代5柱

由緒
『延喜式神名帳』に載る大隅国の式内社5社の1社とされ、旧社格は県社。『延喜式神名帳』大隅国囎唹郡に載せる「宮浦神社」に比定されるが、宝暦2年(1752年)以前の様子は一切不明である。当宮から北北西3キロ弱に若尊鼻(わかみこのはな)という岬があり、神武天皇が幼少期を当地で過ごした故事から「若皇子鼻(わかみこのはな)」と名付けられた事に始まるとの伝承がある。
当地は宮崎県の都城市や高原町に近く、都城には神武天皇の皇居の跡という場所が、高原町には同天皇が降誕したという狭野神社があるので、同天皇が幼少期に当地へ来往する事もあり、そこから同天皇を祀る神社として創祀されたであろうし、上記若尊鼻も同天皇の別称である若御毛沼(わかみけぬ)命(『古事記』)から起こったのではないかという仮説があるが、それは附会で、次に見る禁忌の中にこそ創祀の事情が隠されているかと思われ、その点は不詳であるものの鎮座地が東方都城に連絡する陸路と西方鹿児島湾沿岸諸集落を結ぶ海路との接点に位置する事から船舶に深く関係する神社であった事が窺える。なお、桜島の噴火でたびたび被災したらしく、寛政3年(1791年)には大火で社殿を焼失したが薩摩藩藩主島津斉宣により再興されたという。
当宮祭神は麻と苧の栽培、正月25日の祭日以前の機織、同じく祭日以前に灸をする事の3点を嫌うので氏子もそれら行為を禁忌としていたが、生活に差し障りもある為に神慮を宥めてこれを無くそうと諮り、宝暦2年4月に京の吉田家へ神位の授与を願った所、式内社である由緒を以て同年12月18日に極位(正一位)の宗源宣旨と幣帛が下され、爾来「宮浦大明神」と称された。なお、この時同時に桃園天皇からの勅許も下され、薩摩藩領内の神社では神位授与に際して勅許の下された唯一の神社であったという。
明治6年(1873年)県社に列した。なお、同10年の西南戦争で被災している。
ウィキペディア より。

参道入口と「延喜式内社宮浦宮」と書かれた社号標

参道

参道脇の末社

境内

拝殿

本殿


末社
御神木