南洲神社

鹿児島市上竜尾町2(平成22年1月6日)

東経130度33分40.43秒、北緯31度36分10.3秒に鎮座。

 この神社は西南戦争での西郷軍方の戦死者が埋葬されている南洲墓地の北隣に鎮座しています。参道には江戸城が無血開城され、江戸100万市民が兵火を免れたことへの感謝のため東京市によって建立された常夜燈や、幕末以来西郷と親交の深かった勝海舟が、愛する私学校生徒に身を委ね生涯を閉じた亡友のために詠んだ歌碑などがあります。
 広い石段の参道を上がると左にはお茶屋さん、右には社務所が建ち、境内へはもう一回石段を上がります。未だに西郷さん人気は根強いものがあるのでしょう、境内は参拝者で賑わっていました。
 コンクリート造りの拝殿内には上野公園でおなじみの犬を連れた西郷隆盛像が置かれ、流造りの本殿は垣内に建立されていました。

 御祭神:西郷隆盛命
 祭礼日:例祭・9月24日、祈年祭・2月22日、夏祭・7月17・18日
 由緒:明治10年(1877年)9月24日、官軍の総攻撃によって西郷隆盛以下藩軍が全滅し西南戦争が終結すると、鹿児島県令岩村通俊は官軍の許可を得て西郷隆盛らの遺体を鹿児島市内5か所に仮埋葬した。明治12年(1879年)、有志によってそれらの墓を現在地にまとめて改葬し、その後、九州各地に散在していた西郷軍の遺骨も集めて計2023名が葬られる「南洲墓地」となった。
 西郷隆盛の偉徳を敬崇してその墓に参る者が年々増加したことから、明治13年(1880年)、南洲墓地の隣に参拝所が設けられ、大正11年6月28日、「南洲神社」として無格社に認定された。
 昭和20年に戦災で焼失し、昭和25年9月に再建された。昭和53年(1978年)、墓地の隣に西郷南洲顕彰館が建設された。
 西郷隆盛を祀る同名社が山形県酒田市、宮崎県都城市、鹿児島県和泊町の沖永良部島にも創建されている。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

常夜燈
西郷と勝海舟との会談により江戸城が無血開城され、江戸100万市民が兵火を免れたことへの感謝のため、昭和14年5月当時の東京市によって建立されたものです。
勝海舟歌碑
幕末以来西郷と親交の深かった勝海舟が、愛する私学校生徒に身を委ね生涯を閉じた亡友のために詠んだものです。
イチョウ
オガタマノキ
社頭 社号標
参道の様子
境内入口
拝殿
拝殿の西郷隆盛像
本殿
招魂碑



南 洲 墓 地

明治10年(1877年)9月24日、官軍の総攻撃によって西郷隆盛以下藩軍が全滅し西南戦争が終結すると、鹿児島県令岩村通俊は官軍の許可を得て西郷隆盛らの遺体を鹿児島市内5か所に仮埋葬した。明治12年(1879年)、有志によってそれらの墓を現在地にまとめて改葬し、その後、九州各地に散在していた西郷軍の遺骨も集めて計2023名が葬られた。墓石は正面に西郷隆盛、左手に最後まで奮戦した桐野利秋、右手には篠原国幹、他には村田新八、辺見十郎太、別府晋介、桂久武など幹部が並び、鹿児島県令(知事)として西郷を支援し処刑された大山綱良や、わずか14歳にして戦場に消えた伊地知・池田両少年、兄弟5人が討ち死にした児玉兄弟、県外出身者の名も見られる。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

南洲墓地入口に立つ鳥居
参道の様子
墓地全景
西郷隆盛墓石
桐野利秋墓石
薩軍総指揮官。四番大隊長。無類の豪胆。勤皇の志士として活躍し、"中村半次郎"の名で有名。戊辰の役に功あり。陸軍少将。熊本鎮台司令長官。陸軍裁判所長を歴任。40歳。
永山盛弘墓石
薩軍三番大隊長。人柄温和にして義に富む。明治4年陸軍中佐、北海道屯田兵の長。 8年辞職して帰国。10年4月熊本県御船に於いて奮戦し民家に入り火を放ち自刃す。40歳。
篠原国幹墓石
薩軍一番大隊長。智略あり、桐野と並び立つ猛将。私学校銃隊の監督。明治5年陸軍少将、近衛兵司令官。明治10年3月4日吉次越の激戦に陣頭指揮。42歳で戦死。
村田新八墓石
薩軍二番大隊長。明治4年宮内大丞となり、岩倉具視一行に加わり欧米を視察。7年帰朝し辞職、帰鹿。私学校砲隊の監督。城山最後の日、西郷の死を見届けて自刃。42歳。
別府晋助景長墓石
明治10年9月24日城山で戦死。明治6年近衛少佐を辞し帰郷、加治木区長となる。西南の役では6番7番連合大隊長として出陣。9月24日早朝、岩崎谷口に向かい突進中、銃弾を受けた西郷の命によりその介錯をつとめた。31歳。
辺見十郎太墓石
薩軍三番大隊一番小隊長。可愛嶽突破には先鋒となり、頭部に負傷せしも屈せず。9月24日別府晋介と共に南州翁に従い岩崎谷に進み奮戦して死す。近衛陸軍大尉。29歳。
西南戦争に敗れた薩軍2023名の将兵墓石の一部
 岩崎谷で戦死した西郷以下40名を仮埋葬したこの地に、その2年後、市内各所に埋葬されていた遺骨を移し、さらに6年後には、宮崎・熊本・大分の各県からも集められた。
岩村県令記念碑
岩村通俊、天保11(1840)年〜大正4(1915)年、土佐藩士、幼少のころ漢学を修め、剣を学びました。明治元年(1868)年の戊辰戦争には、軍監として従軍、越後に転戦しました。維新後、新政府に仕え、明治10(1877)年5月、鹿児島県令(県知事)となり西南戦争の処理に努めました。城山の戦いで西南戦争が終わると、旧浄光明寺(現在の南洲墓地) に送られた西郷隆盛・桐野利秋以下西郷軍の戦死者の遺体をていねいに埋葬しました。そして自ら戦死者の墓碑を書いて建てました。岩村県令は「西郷隆盛らの考えは、後の世に必ずわかってもらえる」と信じ、政府への気がねや世間のわずらわしい噂をしりぞけたといわれます。岩村は、のちに北海道長官や農務大臣になりました。

(「鹿児島史蹟紹介」より)