箱崎八幡神社

出水市上知識町46(平成22年1月7日)

東経130度20分38.1秒、北緯32度4分54.82秒に鎮座。

 この神社は肥薩おれんじ鉄道・西出水駅の北北東約1.2kmに鎮座しています。373号線・箱崎八幡宮信号角に一の鳥居が建ち、参道は神社入口まで300mもあります。
 神社の入口には二の鳥居が建ち、「日本一の大鈴」が架かる随神門を潜ると境内となります。境内参道脇には鶴神様像と長寿・開運・子孫繁栄の象徴として、鶴と亀像が置かれています。その他、毎年一万羽も飛来して来るという、鶴の飛来地として有名なこの地ならでは…の、色々な種類の鶴の見本まで、お目にかかることが出来ます。
 拝殿は権現造コンクリート造銅板葺、本殿は権現造木造銅板葺で、大きく荘厳な造りをしています。その他境内社も数社祀られ、 幸福に成る(鳴る)日本一の大鈴に因んでか、境内には宝物鈴殿等も作られていました。

 御祭神:誉田和気命(応神天皇)、息長足比売命(神功皇后)、高良玉垂命(武内宿禰)
 祭礼日:歳旦祭・1月1日、七草祭・1月7日、建国祭・2月11日、春祭(祈年祭)・3月25日、夏越祭・7月中旬、例大祭・10月25日、七五三・11月15日、秋祭(新嘗祭)・11月25日、月次祭・毎月1日・15日
 境内社:箱崎稲荷神社他2社
 由緒:島津始祖・忠久公が鎌倉より山門院野田へ下向の途、筑前博多の沖で逆風に遭い乗船まさに難破しようとする折、筥崎宮に請願して難を免れ無事山門院荘之浦に着船できたので、当社を勧請したと伝えられる。
 初め野田極楽寺(野田女子校の辺り)に建立、その後名古浦、六月田と遷り出水領主薩州家二代目・国久公の文明の頃(五百年余前)此の地を卜して当社を建立したという。
 また一説には、文永・弘安の頃、筑前博多に蒙古の襲来あり。その時、公命により島津久経公(三代)が同国箱崎の津に出陣し、なかでも弘安四年夏、蒙古の大軍押し寄せた時、久経公は、八幡宮に御参拝ありて、一心に討滅を祈願せられしに霊験ありて殊勲を博されたことは史籍にも瞭らかなところであるが、凱旋の時にあたりて、すなわち八幡宮の御神霊を奉戴され帰国になった。薩州出水郷と隅州吉松郷の二ヵ所に勧請し、国境の守護軍神として厚く崇敬せられた。
 島津義虎公(六代)は最も尊崇篤く永祿6年には御宝殿を造立している。然し、天正15年の豊臣秀吉の征西、更に朝鮮の役には、出水領主薩州家は断絶し、出水の地は没収せられて秀吉の殿領となり、当社は別当寺の成願寺と共に破壊された。だが、慶長4年、朝鮮役の島津宗家義弘・家久父子の抜群の戦功により出水は再び島津家久公に与えられた。翌年公は、自ら出水に入部し、僅かの間に荒廃した山河を見て、まず当社と成願寺の復興を命じたのである。
 出水郷二代地頭椛山久高は慶長14年琉球攻めの主将を命ぜられ出陣に当たり戦勝を祈願し目出度く任を果たして佩用の鎧・太刀を奉納した。
 こうして当社は薩州の宗社国境鎮護の神として歴代藩主の尊崇厚く、大祭には必ず地頭が代参を勤めたのである。
 明治維新後は別当寺成願寺も廃寺となり神領も多くは上地となり社殿も暫く腐朽した。そして明治15年、氏子相計り義金を以て社殿を造営したが、その後、明治・大正・昭和の約百年を経て再び改築の期を迎えた。
 昭和55年、氏子有志の募金により新社殿の再興を見たのである。

参道入り口
入口に建つ一の根巻鳥居と大鈴案内
参道の様子
社頭と二の根巻鳥居 社号標
駐車場を兼ねた参道の様子
茅の輪と門松
龍脇に建つ鳥居は出水麓郷士・伊藤裕徳らの寄進による黒船ゆかりの灯籠です。
日本一の大鈴(直径3m、高さ4m、重量2500kg)の架かった随神門
参道・境内の様子
紀元2600年を記念して奉納された狛犬です。
狛犬の拡大写真はこちらで
(昭和15年(1940)建立)
拝殿
拝殿内の様子
本殿
境内社:箱崎稲荷神社
境内社 境内社
鶴神様像
撫鶴
撫亀
流石鶴の飛来地として有名な出水市の神社です。境内には沢山の鶴が舞っています。
境内に置かれた大鈴 宝物鈴殿
撫陰陽石
御神木