精矛(くわしほこ)神社

姶良市加治木町日木山311 (平成22年1月4日)

東経130度40分43.59秒、北緯31度44分11.2秒に鎮座。

この神社は加治木駅の東北東約600mに鎮座しています。日豊本線の踏み切りを渡ると、真っ直ぐ正面の山裾に鳥居が見えてきます。
社頭には一の鳥居が建ち、左右には「縣社精矛神社」の社号標、「朝鮮伝来の手水鉢と石臼」碑、「野太刀自顕流 青雲舎道場」の案内板が立っています。広い石段の参道奥に二の鳥居、御旅所があり、再び石段を上がると社殿の建つ境内となります。拝殿は開け放たれて開放的な感じがし、渡り廊下で繋がれた本殿は重厚な入母屋造りの社殿です。
境内右側には朝鮮から持ち帰った手洗鉢と石臼が置かれ、大きな御神木の東側には境内社が一社祀られています。ゲートボール場の右側に古そうな石鳥居が建っているのが気になって仕方なかったのですが、ここは旧社地跡なのでしょうか?社殿跡らしき石垣の前に供え物があり、古そうな狛犬が警護していました。
この神社は、島津17代義弘公を祀っているのですが、現宮司は加治木島津家第13代当主でもある島津義秀氏が務めており、未だに人々から広く敬愛され続けているのが感じ取れる神社でした。

御祭神 精矛厳健雄命(島津義弘公)

由緒
島津氏十七代太守義弘公を祀る。公は天文四年十五代太守貴久公の二男として伊作の亀丸城で誕生し、二十歳で初陣以来、六十六歳の関ヶ原合戦まで大小五十数回の戦に参加し、天下に名をなした名将である。
慶長十二年今の加治木高校、柁城小学校一帯に屋形をつくり、十二年間仁政を施し、元和五年七月二十一日八十五歳で薨去された。薨去後、公の建立に係る加治木本誓寺に霊屋が造営され、京都の仏匠金泥康厳作に成る公の形代を安置し、毎年忌日には士踊を催し、夜間には数百の燈籠を灯して神霊を慰めた。明治維新の際本誓寺が廃せられるや、直ちに明治二年屋敷跡に公を祀る神社が造営され、公の神号精矛厳健雄命から精矛神社とした(祝詞では「せいぼ」と音読)。
大正七年十月一日公の三百年祭に当たり、現在地に新たに造営遷座し、盛大な祭典を執行した。公は加治木の開祖ともいわれ、その遺徳を崇敬し、毎年武道、芸能などが奉納されている。
鹿児島県神社庁公式サイト より。

御祭神:島津義弘公
祭礼日:4月・木崎原合戦供養祭、7月・精矛神社六月灯、7月21日・島津義弘公ご命日祭、9月・十五夜、10月・泗川合戦合戦供養祭、10月・関ヶ原合戦供養祭、11月・義弘公奉賛弓道大会、11月・義弘公奉賛剣道大会
境内社:一社
由緒:義弘公は天文4年(1535)、第15代貴久公の次男として吹上の伊作亀山城で生まれ、幼少年期は、伊集院の一宇治城で育ちました。将軍足利義昭から、「義珍」と名前を賜り、後に義弘と改めました。
天文23年(1554)、大隅合戦と呼ばれる蒲生・祁答院・入来院の連合軍との戦が始まりました。義弘はこの時、重富・岩剣城の戦いを初陣とし、以降66歳までに五十数回の戦を経た天下の名将でした。特に関ヶ原の戦いでの適中突破「島津の退き口」はあまりにも有名です。
慶長12年(1607)、今の加治木高校・柁城小学校一帯に屋形を造って移り住み、元和5年(1619)、85歳でこの世をさるまで12年間加治木で仁政を施しました。
明治2年、終焉の地に神社を造営し、神号の精矛厳健雄命(クワシホコイズタケヲノミコト)から精矛神社としました。その後、大正7年(1918)10月1日、没後300年に当たり、現在地にあらたに造営遷座しました。
義弘公は道徳や学問の奨励・産業振興などを行い、今でも「太鼓踊りやくも合戦・加治木饅頭は義人公に由来する」と言われるように広く敬愛され、毎年武道・郷土芸能などが奉納されています。

「由緒-教育委員会-」はこちらで

神社遠景
社頭 一の鳥居
社号標
「縣社精矛神社」
町指定有形文化財
「朝鮮伝来の手水鉢と石臼」
「野太刀自顕流
青雲舎道場」
参道の様子
参道途中の二の鳥居
参道と御旅所
境内入口
拝殿
本殿
朝鮮から持ち帰った手洗鉢と石臼
 
境内右側に祀られる境内社
社地の一番右側にある社跡入口
社跡入口にたつ鳥居 参道
社跡
建立年代不明の狛犬
随分損傷が激しく、傷跡の補修の跡が見られます。吽は玉に手をかけています。鬣が短く、尾は装飾的ですが背にぴたっと張り付き、小顔でおっとりとした感じの狛犬です。他の地域ではこの様な狛犬は江戸時代中期までの製作が多いですが、ここ薩摩ではどうなんでしょうか?類似例がないので見当が付きません。
狛犬の拡大写真はこちらで
御神木