屋島木里神社

高松市屋島西町 (平成21年3月28日)

東経134度05分47.17秒、北緯34度22分50.76秒に鎮座。

この神社は、屋島半島の北端、長崎ノ鼻に鎮座しております。創建は天正16年と言うから、戦国時代の終わり、高松藩主の生駒親正が玉藻城を築城。「海上からの侵攻を防備するため、玉藻城の守護神としてまつった」・・・とあるが、地図を見ると、城の北西にあたります。多分、鬼門の守りの為、創られたかと思います。その後松平氏の時代も篤く信仰され、祭礼も盛大に執り行われていたようですが、明治の世になると氏子がいない為、衰微し、さらに江戸時代より祭祀を命ぜらていた鈴木家も、昭和の初めには、この地を離れ、全く忘れ去られてしまったようです。

屋島半島の西側、150号線を北上して行くと「木里神社参道口」と書かれた石碑が見えてきます。案内に従って未舗装の道路を行くと突き当たりが長崎ノ鼻駐車場となります。

長崎ノ鼻遠景

良く見ると海に向かって鳥居が立っています。鳥居の後ろが木里神社であろうと勝手に思い込み車を進めました。

長崎の鼻砲台跡地
 このあたりは、屋島最北端に位置し、長崎の鼻と呼ばれています。ここからは、女木島、大島、豊島、小豆島などの美しい瀬戸の島々をながめることができます。
 嘉永六年(1853)ペリーが軍艦を率いて浦賀に来航して以来、国内では、海防の必要性が強く叫ばれるようになりました。讃岐では、文久三年(1863)幕府の命を受けた高松藩主松平頼聡が高松の港を守るため、ここに砲台を築きました。砲台は藤川三渓(現高松市三谷町出身)の設計によるもので、南の丘から海に向って上、中、下の三段に分けて築造されました。上段は、守備兵の屯所になっており、中、下段には大砲が備えられていました。
環境庁

海側より見る鳥居と不動明王。これ以外何〜にもありません。

海があるのみです。

注意しながら来た道を引き返して行くと、下のようなものが見つかりました。新聞の切り抜きのようです。

「高松の守り神」再興
 屋島木里神社、あす地鎮祭、400年ぶり
屋島北端の長崎ノ鼻に「屋島木里神社」が再興されることになり十一日、地鎮祭が行われる。神域約三千平方米に本、拝殿、社務所などができあがるのは二年後、完成しれば高松藩政時代から約四百年ぶりに「高松の守護神」として再現する。
 木里神社は天正十六年(1588)高松藩主の生駒親正が玉藻城を築城し、海上からの侵攻を防備するため、玉藻城の守護神としてまつったといわれる。その木里神社西峰(高松市西宝町峰山最北端)の宮司である亀田桂さん(83)が古文書などを調べ、当時、玉藻の浦の西と東に「屋船久久能知神」(やふねくくちのかみ)など三神をまつっていたあことがわかった。
 そこで亀田さんは、地形などからみて東峰は屋島ではと実地調査をし、屋島西町の浦生地区で「大砲跡」のある長崎ノ鼻に「木里明神」と呼ばれる小さなホコラと、古びた鳥居を見つけた。さらに地区民の話から、明治三十七年ごろの台風で、社殿が倒壊したことや広瀬猛明・屋島保護協会副会長が保存していた「天保七年」という社殿の棟札と二人の大工名から木里神社東峰を確認。その大工の一人の子供で、十六代目の鈴木京一さんが同市新田町に住み、東峰周辺の土地三千平方米を所有していることもわかった。
 亀田さんは、私財で神域の用地を買収し、その地域が国立公園特別地区なので文化庁にも出かけて東峰再建の認可を受けた。
 計画では雑木林と埋もれていたホコラを移転して台組みの本殿とし、拝殿や社務所のほか参道など神域を整備して「屋島木里神社」として再興する。総事業費はざっと一億円。山口友一高松市議会議員らも協力、募金活動をするが、亀田さんは「できるだけ市民の協力を仰ぎ、不足分は全財産をつぎ込んで再興したい」と話している。

上写真の一番右が亀田桂さんでしょうか。

参道

まもなく正面に社殿が見えてきます。左手は社務所。

拝殿

拝殿前の狛犬。怖そうですが、結構お惚け顔です。拡大写真はこちら。

(昭和57年(1982)8月11日建立)

拝殿内部

本殿

御縁起
 貞亨年間松平頼重公が頼常公と共に城下町を整備し、高松の繁栄と海の安全を祈願するため、水戸から連れてきた、鈴木道栄に屋島長崎で領地を与え、この社の祭祀を命ぜられた。
以来、松平家の御信仰あつく、春秋には、盛大な祭礼が行われていたという。天保七年鈴木家五代目茂信の時、倒壊した社殿の再建も松平家によってさなされ、その記録並びに棟札などが今日残っている。明治維新以後、御援助もなくなり、台風で社殿が倒壊した後は、再建もできず、昭和の初め鈴木家が下山移住をしてからは奉仕する人さえなく、長い間荒れるがままになっていた。
 昭和五十三年五月二十七日のこと、地元浦生に住む古老からここに、お社があったと聞き、早速調査したところ、雑草の中から苔むした祠を発見した。
 祠の正面には松平家の紋章三葉葵が刻みこまれていたが、祭礼で賑わった境内は見る影もなかった。
 この現状をみるに堪えず、八方手を尽くし開拓に調査に建築にと従事する日が毎日続いた。風光明媚な国立公園屋島にふさわしい神域を復活し、御神徳高き屋島木里神社を再建して、永く後世に伝えたいと一心からであった。
 幸いにして念願ようやくにして叶い、種々困難な事情も各宮庁の善意により無事解決し、ここに立派に再建できた次第である。ご協力を賜った各位に深く感謝して記録とする。
昭和五十七年八月吉日
屋島木里神社宮司 亀田桂 謹識
境内由緒書より。


 この神徳高い屋島木里神社を再建した亀田桂は、明治三十一年八月三日、香川県香川郡弦打村(現高松市鶴市町)に生まれた。
 大正五年香川県神職会神職養成部教習科を卒業し、同年、国幣小社砥鹿神社(愛知県一宮市一宮町)の主典として着任した。昭和四年、同神社祭儀主任に昇任し、昭和八年まで神官としての大任を果たした。同年、同社を依願退官し郷里の香川郡弦打村へ帰り、郷里の大明神である、石清尾山中腹に鎮座する、大本山成田山讃岐不動構社木里神社(現高松市郷東町七六一番地)の宮司として、神道普及のために力を注いだ。この年、多大の功績により、二級神官の身分を授けられた。
 昭和三十一年、向良神社(高松市松島町二丁目一番二十号)昭和四十四年には、愛宕神社(現高松市扇町一丁目二番三号)の宮司を兼任する事となった。そして、昭和五十三年五月、当地にて木里大明神の祠を発見し、高松鎮護の木里大明神として後世永く残したいと決意した。その後、昭和五十七年八月十一日、めでたく竣工させた。以後、平成二年二月二十八日の死没まで、屋島木里神社の宮司を務めた。享年九十二才
平成三年二月吉日。

神社を再興した亀田さんは亡くなられたようです。この先維持管理が可能なのでしょうか。再び雑草の中に埋もれなければ良いのですが。