高松市屋島中町 (平成21年3月28日)
東経134度6分37.49秒、北緯34度20分24.95秒に鎮座。
この神社は、琴電屋島駅の東北東600m程の辺り、屋島南嶺の南側山麓に鎮座しております。屋島ドライブウェイの入り口近くに一の鳥居があり、山麓の斜面に沿って石段を上り詰めた所に社殿が建っています。
当神社は慶安四年(1651)初代高松藩主松平頼重公が、香川郡宮脇村の本門寿院境内に東照大神(徳川家康公)の神廟を建立し、崇敬したのにはじまる。
以来、山王社として歴代藩主により奉斎されてきたが、文化元年(1804)当時の高松藩主第八代松平頼儀公は、この風光明媚な屋島山麓において社殿の造営に着手する。左甚五郎の六世、五代目の左利平忠能が、松平家の客分棟梁となり、文化十二年(1815)に完成した。その後、明治四年には冠獄神社と改め、さらに明治七年屋島神社と改称、同年県社に列せられる。明治十五年藩祖松平頼重公を合祀する。昭和四十八年二月不慮の火災にあい、本殿、拝殿等を全焼したが、辛うじて神門(正面上部には鳳凰、両側の柱には上り龍 下り龍の彫刻)は無事であった。社殿は翌年十一月に再建され現在に至っている。
境内由緒書より。原文はこちら。
高松藩祖、松平頼重は、徳川御三家のひとつ、水戸徳川家初代頼房の長男として生まれ、寛永十九年(1642)讃岐高松十二万石を拝領し、高松藩二百三十年の礎を築いた。
頼重は、香川郡宮脇村の本門寿院(現西宝町)の境内に、祖父にあたる徳川家康公を東照大権現として祀り、これを崇敬した。この時の御真影は、家康公ゆかりの天海僧正が自筆画賛し、高松藩拝領に際して頼重に贈ったものとされ、今に伝わる。
文化十二年(1815)家康公二百年忌にあたり、高松藩八代藩主頼儀は、屋島山南嶺の冠嶽へ新たな御宮を造営し、御真影を遷座した。以来、当地において、藩主・藩士の篤い崇敬を集め、数々の武器・武具なども奉納され、後に重要文化財に指定されたものもある。
御宮と称されていた当社は、明治四年(1871)冠嶽神社となり、さらに明治七年(1874)屋島神社と改称し、県社に列せられた。明治十五年(1882)には、藩祖頼重を合祀し現在に至っている。
高松市教育委員会。原文はこちら。
入り口の案内。右は屋島ドライブウェイ経由で屋島寺、新屋島水族館、夢虫館。正面奥は四国村。左が屋島神社となっています。
参道入り口と一の鳥居
二の鳥居。左は駐車場。右は四国村。
参道途中の狛犬。拡大写真はこちら。
(昭和16年(1941)5月吉日建立)
参道
神門遠景
神門
神門の彫刻
拝殿と本殿
山祇神社