若一王子神社

高松市錦町2 (平成21年3月28日)

東経134度02分32.09秒、北緯34度20分36.99秒に鎮座。

この神社は、高松駅の西南西600m程の辺り、二番丁小学校より北西に鎮座しております。玉垣に囲まれていますが、鳥居は無く、〆柱と四脚門風の門構えで、勿論明治迄は寺院であったと思われます。牛頭天王が須佐之男命に変えられたように、熊野の王子も、応神天皇の末子と言われる、莵道雅郎子に換えられたようです。境内は、街中の神社らしく境内は月極の駐車場となっていました。

若一王子神社由緒
祭神:莵道雅郎子命(ウヂノワキイラッコノミコト)
当神社の創祀は紀元1,935年(1275)建治元年第九一代御宇多天皇様の御宇にして讃岐は東西に豪族名家が割據していた時に香川郡の主護(守護?)職初代香西資村氏が香西の勝賀城を築造して威を振い第三代香西資茂氏の時代にして瀬戸内海の制海権を掌握し陸海軍の武威盛んであった。紀州の住人にして新羅三郎義光の十一代の岡田丹後守重宗氏ありて香西家の旗下の将として招かれ箆原郷を納めし人である重宗氏は箆原郷西浜城主にして城は何処に在りしか詳でないが西方寺辺とも伝えられ陳屋(陣屋?)の守護神として紀州の熊野の王子小社より分霊を勧請奉齋せし所と伝えられている。社地は城の巽の隅とも云ひ然し本城は坂田にあったのであろうと伝えられている。紀元2,105(1445)文安二年第102代後花園天皇様の御宇岡田丹後守清家社殿を再建される。創祀より約170年後である。此の時浜の町蓮華寺も創建せられ社僧となる。次いで紀元2,192(1595(1532?))天文元年第105代後奈良天王様の御宇岡田丹後守清忠再興、紀元2,230(1570)第106代正親町天皇様の御宇元亀元年岡田丹後守宗輪氏再興次いで岡田宗忠を経て紀元2,312(1652)承広(承応?)三年第110代後光明天皇様の御宇岡田治長再興、其後岡田家は二十代に至って姓を高島と改め、初代高島甚左衛門より、治政、治賢、治吉、教武、教親、清、清也、清衡、功、定吉11代高島衡介氏あり子孫は生存する。高島家は松平家に仕え西通町の鐵鉋町に住んでいた。壬子神社の祭禮には明治なっても戸主が馬上で槍を立てて渡御に供養していた西通町は昔は高島町とも言伝へられていた。伝説によると老人夢見らく神黒馬に召され往行すと御轡の音のみは正しく現はに聞し人数人ありと云う。馬はこれ神馬なり此の神馬も四足に泥土に觸し踏あり、その踏も時を経て損せり。又昔当神社の広場に男女の童子集りて遊ぶ祭神は其の中に交りて遊ぶ童子互に顔を見合せると必ず見知らぬ一人の童子が交りて居た。然しその容貌を記憶して者はないと云う。祭神が幼児に交りて、それとなく擁護し給うたのである。以上の伝説は当社に残された古文書より記す。古記に曰く祭神は應神天皇様の皇子様で幼児の頃より非常に頭脳明敏で父君の寵愛厚く皇位継承の話題になられた皇子様であらせられますので、学業は勿論幼児の病気等に奇特な霊験あり崇拝されている。
宮司 和田為範 記す
祭日 市立祭 五月・大祭 九月
境内由緒書より。原文はこちら。

王子とは何か
王子は参詣途上で儀礼を行う場所であった。主たる儀礼は奉幣と経供養(般若心経などを読経する)であり、神仏混淆的である。だが、よく言われるような熊野三山遥拝が行われた形跡は(少なくとも史料上では)確認できない。また、帰路にはほとんど顧みられることがないことから、物品の補給をおこなったとする説もあたらないと考えられている。これらの儀式が王子で行われたのは、王子とは熊野権現の御子神であるとの認識があり、すなわち参詣者の庇護が期待されたのである。
これら王子の形成は、中世熊野詣において先達をつとめた熊野の修験者によるものである。本来は沿道住人の祀る雑多な在地の神々である諸社を王子と認定したのは、熊野参詣を主導する先達たちである(ただし解釈は一貫せず、参詣記ごと・先達ごとのばらつきが相当ある)。また、王子という命名も、峯中修行者を守護する神仏は童子の姿をとるという修験道の思想に基づくものであると考えられる。同時に、熊野修験は院政期以降の皇族・貴人たちの参詣の先達をつとめたが、このことは、九十九王子の顕著な特徴である、紀伊路・中辺路への集中や院政期に重なる12世紀の大量出現をもたらしている。実際、最盛期に80余を数えた王子の大半は、皇族の参詣の活発化に伴って組織されたものである。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より

社号標と神社入り口

神門

入り口両側の茂みの中にお住まいです。拡大写真はこちら。

拝殿

本殿

多賀神社