諏訪神社

高松市東山崎町 (平成21年3月28日)

東経134度5分58.34秒、北緯34度18分30.95秒に鎮座。

この神社は、高松の南東郊外、久米池の南西にある古墳の上に鎮座しております。讃岐では珍しい諏訪神社ですが、武田の遺児「桃千代丸」が此の地に逃れ、諏訪明神を勧請したと云う。信玄亡き後、甲斐武田氏を継いだ勝頼は天目山の戦いで破れ、一門はかの地で滅んだと云われているが・・・・・。

祭神:建御名方神
 時天正十年三月十一日武田信玄の長男勝頼とその嗣子信勝は天目山の戦いに織田信長に敗れ親子共々に自害す。武田氏は滅亡に及び信勝の弟桃千代丸は家臣十八人女中七人を伴ひ屋島の地に逃れ来たり。山田郡元山村領主大熊備前守方に暫止留なし再起を謀るべく此の地に諏訪明神を勧請、後香東郡坂田室山城主細川家々臣坂田権守に頼り住みしも時悪く天正十三年三月豊臣秀吉の四國征伐に遭遇し室山城落城桃千代丸逃れ此の地に来り掃部屋敷(神社東側下の東寄り最近迄柿の大木と井戸が残在していたが今は埋没して跡なし)に住み祠職をなすも延宝年中発覚されその職を遂放され長い年月そのままとなり荒廃極に達す。山崎の住民恐れ畏み修復し山崎の守護神として現在も祭祀せるは誠に敬神の念厚き心に感銘するものである。御神徳の一説に地蔵寺の住職屋島西町に移遷せんと諏訪明神に我に百人分の力を授け給へと日参せし所その力量を授けられ喜び勇み帰寺せんと新川の堤防にさしかかった時両足地中に没し歩行出来ず直ちに力量減じ給へと念じたる所忽ち五十人力減ずるが故に寺院の建立に役だたせよと神託あり住職直ちに棟木を組立て落成新田町奥の坊より本尊の移遷せしとある。
明治五年七月久米八幡宮境外末社となる。
境内由緒書より。

由緒書と古墳の説明はこちら。

武田四郎勝頼と云い四男。長男は義信。義信事件と云われる、武田信玄暗殺事件の為失脚後、勝頼が信玄の指名で後継者と定められたそうです。

神社全景

神社入り口左右の狛犬。拡大写真はこちら。

(大正14年(1925)1月建立)

拝殿と本殿

境内の末社

境内前の桜