櫻八幡神社

高松市庵治町 (平成21年3月28日)

東経134度08分29.54秒、北緯34度22分43.47秒に鎮座。

この神社は、瀬戸内海に浮ぶ、豊島や小豆島を望む、庵治半島の中央部、庵治の町を見下ろすようにやや高い所に鎮座しております。石の町らしく、石段の参道両側には狛犬や灯篭が並び、狛犬ファンの我々には嬉しいかぎりです。

 櫻之宮と称え佐久良尾神として木華咲耶比賣(このはなさくやひめ)を祭り庵治一郷の総氏神とした。承和七年(840)一郷一八幡として譽田天皇(ほんだのすらのみこと)外三神を勧請した古社である。936年より1433年の間に八回の修築遷宮の記録があり、後戦国の兵乱に焼け1634年宥仙法師によって再興された。明治元年別当満願寺は廃され、鐘楼は手水舎に代わり、寺の跡を社務所とした。
 社宝として太閤秀吉寄進の「つつじ」の太鼓があり、船名の書かれた灯篭なども庵治回船の昔を思わせる。
1992年5月 庵治町

祭神:譽田天皇・足仲彦天皇・息長足姫命・武内宿禰大臣
由緒 櫻之宮 櫻尾八幡宮等奉稱せられ、古来庵治一郷の産土神にして、三代物語に「庵治一郷社祀之」と見ゆ。往古は佐久良尾神と稱え木華咲耶比賣を奉祀して鎮護の神とせしが、貞和七年更に八幡神を配祀せりともいふ。紫雲山代々舊記には「承平六年八月一郷一八幡勧請同九月明海置諸社■別當」と見ゆ。嘉慶年間別當満願寺教尊願主となりて寫経六百巻を奉納す。一巻毎に奥書あり其の年号と願主を明記す。今此の寫経、欠本数巻を補ひて全六百巻願成寺に所蔵す。豊臣秀吉朝鮮を征するに際し當地の海路に熟達せし者を八名選び水先の役をなさしむ。秀吉此の浦に船を泊し當社に戦勝を祈れり。凱旋に際し吉野蔵王堂の躑躅の柱の一端を以て宮太鼓を造り報賽の為め是を當社に納む。今寶物として現存す。其の銘に「文禄四乙未歳」とあり、天暦元年、萬壽元年、治暦四年、寛治七年、建仁二年、承元二年、文永元年、正安二年、永享五年等に阿地八幡宮遷宮のこと寶蔵院古暦記紫雲山代々舊記に見え、又寛永年中沙門宥仙、邦内に志を募りて社殿を再修せしこと全讃史に見ゆ。明治四十年九月二十一日神饌幣帛供進神社に指定せらる(三代物語、全讃史、名勝図絵、香川縣史、紫雲山極楽寺寶蔵院古暦記、紫雲山代々舊記参照)現在の櫻八幡神社の社務所の敷地は舊満願寺の遺蹟なり。
 初め眞済僧正山城の國高尾山神護寺に居り、嘗て行基造る所の十一面大悲像を得て珍しく思ひ、恒にこれを奏して暫くも身を離さず。霊場を求めてこれを安置せんとして年あり。承和六年秋八月庵治浦に来泊し、夜中忽ち夢の如くにして一老翁を見る。身の丈丈余髪眉皓白にしてあずさの杖に頼り船頭に立ち、僧正に謂って曰く。これより東へ五百歩行けば山あり。形蓮華に類し南五剣山と相對す。北に京女峯あり、峻峙遊ぶべし。東に平皐廣きを望み、西には滄海浩々洋々たり。子蓋んぞ始めて彼の地を経ざるか。朕能く僧正を擁護せんと。僧正快然跪坐して問うて曰く「翁は何処の誰ぞや」 「朕は八幡なり。子の至誠に感ず。是を以て敢えて告ぐ」言未だ畢らずして忽にして見えず。僧正大いに喜び坐して将に旦に及ばんとす。生きてこれを見れば果して言の如し。ここに於て民家に投じて財を聚め家戸に請い求む。積りて千萬銭に至る。明年を越えて堂これを営み成すに萬貫銭を以てす。故に號けて蓮華山萬貫寺観音院という。翌年庚申歳八幡宮勧請仁明天皇の勅命にて東丘に造営す。これ櫻八幡神社の由来にして古記録に瞭なる所なり。現在より逆算して千百六拾有余年の昔に由来し、庵治郷社櫻八幡神社として庵治町弐千七拾有余世帯を氏子として浅からざる尊信を以て一郷の斎きまつり来たるところなり。かかる歴史を存し神徳霊験いやちこなる口碑事例枚挙に遑非ず。郷當の各戸を守護し、其の一人一人に光被し給う、恩徳の廣大窮り無く古来より敬神崇祖の念殊に篤し。
境内由緒書より。

参道入り口

玉乗りだが広島型でなく愛媛型と言って良いのだろうか。拡大写真はこちら。

(嘉永3年(1850)建立)

参道の石段

石段中程の狛犬。拡大写真はこちら。

(慶応元年(1865)8月吉日建立)

神門

最後の石段

石段最上部、年代不明の狛犬。拡大写真はこちら。

拝殿

本殿

境内西側の脇参道

脇参道を護る浪速狛犬。拡大写真はこちら。

(安政2年(1855)5月吉日建立)

遥拝所

遥拝所を護る一体だけの狛犬

大歳神社

庵治彦岡神社

若宮神社 神明神社

流石石の町素晴らしい手水鉢です。

境内前の景色

御旅所。600m程南にあります。

東経134度08分26.07秒、北緯34度22分24.60秒に鎮座。