久米石清水八幡宮

高松市東山崎町 (平成21年3月28日)

東経134度06分06.22秒、北緯34度18分31.03秒に鎮座。

この神社は、高松の南東郊外、久米池の南岸に鎮座しております。池沿いに参道を行くと正面に社殿、右手に神明殿と称する結婚式場が見えて来ます。

祭神:應神天皇・仲哀天皇・神功皇后

當神社は天平十一年八月十五日、舊山田郡本山郷の一郷一社の氏神にして
 九州宇佐八幡宮より別御霊を御勧請申上げ
時の栄枯盛衰の変轉ありたりと雖も、御神體は當時よりそのまま奉安申上げ現在に至ってゐる。貞観元年本山を以って石清水八幡宮神供料とせられ、東鑑嘉禎二年七月二十五日の下文に、石清水領讃岐國本山庄被止足木工助遠親知行地頭職一圓被下宮寺 とある。弘仁元年僧空海この地に来り久米寺方丈山宿坊に泊まりその夜瑞光空海に示現す。依って翌日自ら光源を尋ねしに、八幡宮の祠あり畏み親しく参拝なし、神恩を謝したりとある。當地は古代天津久米命の裔の永住地により、地名を久米と稱し、久米宮、久米八幡宮、久米石清水八幡宮と奉稱申上げてきた。全讃史に、天文末久米六兵衛者潜居此山常信八幡神募里人立祠以此縁故曰久米山久米寺主之 と見ゆ。永正年中長我部軍の兵火に罹り、同郷久米の地に祠を建て奉遷す。元和六年九月社司高倉氏修造。更に寛文四年修造す。元禄六年社殿を舊久米のこの地に復し、四月八日高松石清尾八幡宮神主藤原成圀をして御遷宮の儀を行ふ。明治五年石清水神社と改稱、同年七月三十日村社に列せられ、明治四十年十月二十四日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。大正十四年十月社殿炎上同十五年十月新社殿落成し御遷宮の儀を行ふ。
境内由緒書より。原文はこちら。

地図を見ると、今でも、すぐ南隣に久米寺があります。

参道入り口。右手が久米池。

鳥居と社号標。「石清水八幡宮」と書かれています。「久米神社」と呼ばれたこともあったようです。

二の鳥居。残念ながら桜は今少し早いようです。

境内入り口と神門

境内

何故か讃岐では珍しい子取、玉取の狛犬。拡大写真はこちら。

(文久2年(1862)4月建立)

拝殿正面

石段上左右の狛犬。尻尾が立派です。拡大写真はこちら。

(弘化3年(1846)8月吉日建立)

拝殿と本殿

若宮神社

不明の末社 石祠

境内より見る久米池と屋島

境内の東200m程の所ある、御旅所入り口。古くから拓けていたようで、弥生時代の遺跡があるようです。

久米池南遺跡
 久米神社御旅所から高松市茶臼山古墳に至る尾根は、採土工事により亡失しているが、そこには、かって弥生時代中頃(西暦二世紀頃)の集落が存在した
 弥生時代の遺跡は、低地に位置するのが一般的である。しかし、この久米池南遺跡は、小高い丘陵の頂部を占めていた。このような集落を高地性集落といい、弥生時代に近畿地方から、瀬戸内海沿岸にかけて数多く出現した。眺望の良い絶好の地点に位置する事が多いことから砦のような軍事的な遺跡と考えられている。
 この遺跡の発掘調査の結果によれば、丘陵の頂部に位置した掘立柱の建物を守るように、竪穴式住居が、さらにその外側にテラス状遺構と土坑墓が検出された。その他出土遺物には大量の土器片に混じって、家の絵を線刻した土器片。当時としては、非常に貴重な鉄剣などの鉄器が多量に出土している。讃岐における代表的、高地性集落である。
高松市教育委員会。

御旅所